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警護でござる。将軍、世直しの旅に出る  作者: 林和志
1章 世直しの旅
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1.将軍は無茶を言う

水戸黄門がリアルにあったら、私なら、鉄砲隊と忍者を警護につけると思います。

暴れん坊将軍でも、将軍が独り歩きされたら、洒落なならないので、警護をつけると思います。

世間知らずな、上が、世直しの旅をすると言い出したら、老中とか配下の人、めちゃくちゃ困ると思いませんか?


現役の首相は、24時間、SPがいます。暴漢に襲われたら、警察庁長官が辞職しないといけないから・・・。

首相が、深夜に国会答弁の直しをすると、首相秘書官が付き合わされる。そうすると、首相答弁は、担当課の課長の携帯番号を答弁に記載するんです。なぜかというと、深夜に首相秘書官が確認の電話をかけることがあるから。

なので、首相が深夜に仕事をすると、結局、官僚、全員が霞が関から離れられなくなるんです。

首相答弁は、早朝、ご説明する。なぜ、早朝かというと官僚の仕事は午前3時前後に終わる。ご説明が7時からなら、3時間から4時間、役所の床で寝ることが出来る。

大臣答弁と首相答弁は、重さが違うから、前首相なんかが、高市首相に説明して、普通は引継ぎするんです。「大臣感覚で、答弁の直しをできないよ」と。

なので、高市さんが深夜に首相官邸で仕事をはじめはじめたということは、石破さんとか菅さんが仕事の引継ぎをしていない、首相が動くと、官僚が全員寝れなくなるって、教えていないのかなと・・・。

 「世直しの旅をせねばなるまい」

 

 父である家光公の影響か、あるいは不良中年の水戸宰相殿の悪影響か、その日、唐突に上様、右大臣兼右近衛大将、つまりは征夷大将軍、徳川家綱が世直しの旅に出かけると言い出した。

 その日の午後、城の本丸御殿にある老中の御用部屋にて、大老の酒井忠清と老中の松平が真剣な顔で話し合っていた。

 「そのようなお戯れ、いつものことではありませぬか」

老中の松平は、平然とそう答えたが、憮然とした顔で酒井は少々、苦々しげに言った。

 「今回ばかりは、上様も本気のようじゃぞ」

 「そうであれば、いっそのこと、世直しの旅をしていただくのも一興ではないかと」

 能天気に松平が答えたのが、酒井には腹立たしく思えた。

 「馬鹿を申せ。一応、あのお方は将軍ぞ」

 「上様は、幼少時に将軍に就任され、お疲れなのではありませぬか。日光社参と思うて、小田原辺りまで旅をしていただいてはいかがか」

四代将軍、徳川家綱。幼少より将軍の座にあり、その治世は大老や老中、将軍後見の保科正之が担っていた。お飾りの葵であった。

 

 関ケ原の合戦、豊臣を滅ぼした二度の大坂の合戦、島原の乱、由井正雪の乱、明暦の大火、紆余曲折があったが、徳川幕府も四代将軍家綱の代になり、やっと安定政権になりつつあった。

本来であれば、強くお諫めして、物見遊山の旅行を阻止するのが大老の仕事である。

 しかし、酒井にも長年、将軍職に就いていた家綱に息抜きをさせたいという想いもあった。

 親藩の代表として老中を務める松平も小田原近辺までならお忍びで出向かれても良いのではないかと言う。

 こうして、大老の酒井の下に将軍、家綱の世直しの旅の準備組が結成されることとなったのである。

 酒井は、呟く。

 「のう、松平殿。今、忍者はおるのか」

 戦国時代、神君家康公の伊賀越えに助力した服部半蔵をはじめとする忍びは、伊賀同心、甲賀同心となり、数百人規模の御家人集団として、幕府で働いていた。

 家康は、戦国の世を終わらせた。それは、武の社会から文治への転換を意味していた。

 伊賀、甲賀の同心達も、今は皆、事務仕事を担っていた。

 幕府には形ばかりの隠密もいる。しかし、隠密の仕事は、各藩の情報収集、つまりは事務屋である。

 戦国時代のような、実戦向きの忍びの仕事はもはやないのだ。

 町奉行所の捕り方は、町方相手、浪人相手である。武装した武士を真剣で相手に出来るのか。家綱の治世には、由井正雪の乱、承安の変等の浪人の武装蜂起未遂事件があった。しかし、こうした武装蜂起事件は内通者の密告によって事前に幕府が鎮圧してきた。

 

 柳生新陰流の宗家、柳生宗冬は家綱の剣術指南役である。しかし、あの柳生宗冬ですら、真剣で戦ったことはないはずである。そういう平和な時代であった。武芸は武家の出世のための様式美、習い事でしかないのだ。

むろん、家光、家綱親子も武家棟梁であったから、武芸は嫌いではなかった。毎年、将軍主催の武芸上覧が行われる程度には武芸を好んでいた。けれど、将軍や御三家、老中が臨席する中、真剣で競わせるような切腹ものの馬鹿な真似は出来なかった。武芸者達は将軍や御三家のお抱えの武士である。誰かを死傷させれば、将軍家と御三家のもめ事の原因となる。

木刀や竹刀の剣術の達人はいくらでもいる。だが、真剣の達人がいるのかどうかが幕閣の酒井や松平にすら、わからなかった。


 今は、泰平の世なのだ。戦がないのだ。当たり前である。

 刃傷沙汰は、江戸では重罪である。無礼討ちですら、細かな書状の事務手続きが必要であった。幕臣が無礼討ちを行えば、正当な手続きを踏んだものであったとしても、昇進に響いた。大名家の家臣が江戸で、無礼討ちを行えば、幕府から睨まれた。ゆえに、大名家の家臣達は、藩内では、無礼討ちを認められていても、花のお江戸の勤務時には、「お家のために切捨御免など絶対にせぬように、幕府が許しても藩で切腹させる」と上役から厳しく注意を受けていた。


 こうして、大老、酒井による上様の世直しの旅警護計画は早くも頓挫しつつあった。

 「水戸宰相様の御家中に相談されてはいかがでしょうか」

 大日本史編纂と称し、諸国漫遊をしていたという、悪い噂があった御三家の水戸宰相の附家老であれば、殿の警護に詳しいかもしれない。

 「馬鹿々々しい。いや、存外、妙案かもしれぬな。松平殿、手配を頼む」

 大老の酒井と老中の松平の二名は、御三家、水戸宰相の附家老と面談をすることとなり、御用部屋の密談はお開きとなった。


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