氷嘯国のアウレア
読むと涼しくなりますよ!
氷の膜の下で、水が呼吸をしている。
耳を澄ませば、その寝息のような水音が、石畳の底から響いてくるのがわかった。
氷嘯国の朝は、青白い光の粒が空から降り注ぐことで始まる。
空気は硝子のように張り詰め、吸い込めば肺の奥がひやりと冷える。
街を覆う白い石壁も、軒先に下がる氷柱も、すべてが気配を消して静まり返っていた。
音は雪に吸われ、遠くへは届かない。
アウレアは朝霧の中を歩いていた。
手には、使い込まれた陶器の水瓶を提げている。
吐き出す息は白い形を成し、音もなく大気に溶けた。
彼女は城下町の外れにある、広大な湖へと向かう。
毎朝の日課だった。
ただ水を汲む。それだけの営みが、アウレアの生活のすべてを支えている。
なだらかな坂を下ると、視界が開ける。
巨大な鏡のような湖が、暁の空を映して横たわっていた。
湖の中央には、白い石と透明な氷晶で築かれた王城が浮かんでいる。
岸から城へと架かるのは、一本の細く長い氷の橋のみ。
アウレアにとって、あの城は遠い景色のひとつに過ぎない。
岸辺に降り立ち、アウレアは膝をついた。
厚手の布越しに、地面の冷気が伝わってくる。
手袋を外し、そっと水面に指を伸ばした。
ふ、と指先が水に触れる。
刺すような冷たさ。
けれど、不快ではなかった。むしろその鋭い清冽さが、眠っていた感覚を鮮やかに呼び覚ます。
アウレアは水の中を覗き込んだ。
湖の水は、いつもなら水晶のように透き通っているはずだった。
しかし今朝は、どこか様子が違う。
底にあるはずの白い砂が、薄い膜の向こうに霞んで見える。
わずかに、白く濁っていた。
ミルクを一滴垂らしたような、頼りない揺らぎ。
風のせいではない。光の加減でもない。
水そのものが、何かを恐れて震えているように見えた。
アウレアは水瓶を沈めるのをためらい、ただ指先で水を撫でた。
円を描くように、ゆっくりと指を遊ばせる。
すると、変化が起きた。
アウレアの指が触れている周囲、ほんのわずかな範囲だけ、濁りが晴れていく。
澱が沈み、透明な色が戻ってくる。
波紋が広がるたび、そこだけが磨かれた鏡のように、底まで見通せるようになった。
小石の輪郭、揺れる水草の影。
すべてが鮮明だった。
アウレアは小さく息を吐く。
水が綺麗であること。
ただそれだけの事実に安堵し、水瓶を沈めた。
とぷ、と小さな音が響く。
重みを増した瓶を引き上げると、そこには一切の曇りもない水が満ちていた。
その時だった。
視界の端に、白い影が落ちた。
風が止まったような気配。
アウレアは顔を上げる。
数歩離れた場所に、一人の青年が立っていた。
足音はなかった。
あるいは、水の音に溶けていたのかもしれない。
白銀の髪が、朝霧の色によく似ていた。
瞳は薄い氷の色。
身につけた衣服は上等な白い織物で、銀の刺繍が施されている。
けれど、彼自身が発する冷ややかな静けさが、装飾の華やかさを消していた。
この国を統べる王族。
その中でも、ひときわ冷徹で美しいと噂される第一王子。
アウレアはすぐにその場に平伏そうとした。
「そのままで」
声は低く、そして澄んでいた。
命令というよりは、懇願に近い響きがあった。
アウレアは動きを止める。
水瓶の中の水が、たぷりと揺れる。
青年はゆっくりと近づいてきた。
雪を踏む音すらしない。
アウレアのすぐそばで足を止める。
彼はアウレアを見るのではなく、彼女の手元にある水瓶を見つめていた。
「……綺麗だ」
ぽつりと、言葉が落ちる。
氷が割れるような、硬質で美しい声。
「城の水は、これほど澄んではいない」
アウレアは顔を伏せたまま、瞬きをした。
王城の水こそ、国で最も清らかなはずだ。
けれど、彼の声音に含まれる微かな陰りが、それが事実であることを告げていた。
王子は屈み込み、アウレアの手の近く、水瓶の縁に指を触れた。
白く、骨ばった、長い指。
陶器越しに、ひやりとした温度が伝わる。
「湖は泣いているのに」
彼が視線を湖全体へと向ける。
広い湖面は、やはりまだ白く濁ったままである。
アウレアが清めたのは、ほんの手の届く範囲だけ。
それ以外は、得体の知れない不安を孕んで澱んでいる。
この国では、水は心を映すと言われている。
濁りは国の歪み。
澄みは調和。
「君が触れると、水は黙るのだな」
王子が再び水瓶の中を覗き込む。
揺れる水面は、一点の曇りもなく輝き、彼の銀の髪を映していた。
そこに、アウレアの姿も小さく映り込んでいる。
「私は……ただ、水を汲んでいるだけです」
アウレアは小さく答えた。
言葉が白い息となって漂う。
特別なことは何もしていない。
ただ、この冷たくて美しい水が好きで、大切に扱いたかっただけだ。
静かに、なだめるように接すれば、水は答えてくれる。
そう信じていた。
「無自覚か」
王子は、ふ、と息をついた。
それは笑い声のようでもあり、安堵のため息のようでもあった。
彼の瞳にある氷のような色が、わずかに和らぐ。
冬の日の、雲間から差す淡い日差しに似ていた。
彼は手袋を外した。
素手を、アウレアの手へと伸ばす。
触れはしない。
けれど、その距離の近さに、アウレアの鼓動がひとつだけ強く鳴った。
「探していた」
王子が呟く。
その言葉の意味を、アウレアは測りかねた。
何を、誰を、探していたのか。
尋ねることはしなかった。
ただ、水面の揺らぎを見つめ続ける。
アウレアの周囲だけ、空気までもが濾過されたように清浄だった。
王子が立ち上がった。
衣擦れの音が、静寂に吸い込まれる。
朝の光が強まり、湖面の氷が煌めき始めた。
遠くの城が、朝霧の中から白く浮かび上がる。
「名を」
「アウレア、と申します」
「アウレア」
彼はその音を、大切な宝石のように口の中で転がした。
水面に落ちた雪片が溶けるような、淡く、甘やかな音。
「城へ」
短い言葉だった。
拒絶を許さない響きではなく、自然な流れとしての誘い。
川が海へ注ぐように、当然の帰結として告げられた言葉。
アウレアは目を瞬く。
身分も、理由も、何もかもが釣り合わない。
けれど、目の前の青年の瞳は、揺らぐことなくアウレアを映していた。
そこには、理由を問う隙間などなかった。
ただ、事実として提示されている。
――水が澄んでいる。
それだけで十分だと言うように。
王子が手を差し出した。
掌が、天に向けられている。
その手は大きく、そして頼もしかった。
アウレアは、恐る恐る手を伸ばす。
水仕事で冷え切った自分の手が、白く美しい彼の手へと近づいていく。
躊躇いはあった。
けれど、拒絶することはできない引力がそこにはあった。
指先が触れる。
冷たさと温かさが同時に流れ込んでくる。
彼の指が、アウレアの手を包み込んだ。
しっかりとした力強さで。
その熱が、指先から腕へ、そして胸の奥へと静かに流れ込んでくる。
王子は何も言わなかった。
ただ、アウレアの手を引いて歩き出す。
向かう先は、湖の中央。
朝日に輝く、白亜の城。
二人が歩みを進めると、不思議なことが起きた。
足元の桟橋の周囲、薄く濁っていたはずの湖の水が、ふたりの動きに合わせて澄み渡っていく。
曇りは晴れ、底の白い砂が鮮明に浮かび上がった。
水の中を泳ぐ銀色の魚たちが、光の矢のように翻るのが見える。
アウレアは息を呑んだ。
美しい、と思った。
王子は振り返らない。
ただ、繋いだ手の力をわずかに強めただけだった。
氷の橋が近づいてくる。
その向こうにある城もまた、光を受けて輝きを増していた。
自分がどこへ向かっているのか、これから何が始まるのか、アウレアにはわからない。
けれど、繋がれた手の温かさと、広がる水の透明さだけが、確かな現実としてそこにあった。
空を見上げる。
風が凪ぐ。
水音が消える。
世界はただ、ひたすらに青く、澄んでいた。




