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氷嘯国のアウレア

掲載日:2026/01/17

読むと涼しくなりますよ!

氷の膜の下で、水が呼吸をしている。

 耳を澄ませば、その寝息のような水音が、石畳の底から響いてくるのがわかった。

 氷嘯国ひょうしょうこくの朝は、青白い光の粒が空から降り注ぐことで始まる。

 空気は硝子ガラスのように張り詰め、吸い込めば肺の奥がひやりと冷える。

 街を覆う白い石壁も、軒先に下がる氷柱つららも、すべてが気配を消して静まり返っていた。

 音は雪に吸われ、遠くへは届かない。

 アウレアは朝霧の中を歩いていた。

 手には、使い込まれた陶器の水瓶みずがめを提げている。

 吐き出す息は白い形を成し、音もなく大気に溶けた。

 彼女は城下町の外れにある、広大な湖へと向かう。

 毎朝の日課だった。

 ただ水を汲む。それだけの営みが、アウレアの生活のすべてを支えている。

 なだらかな坂を下ると、視界が開ける。

 巨大な鏡のような湖が、あかつきの空を映して横たわっていた。

 湖の中央には、白い石と透明な氷晶で築かれた王城が浮かんでいる。

 岸から城へと架かるのは、一本の細く長い氷の橋のみ。

 アウレアにとって、あの城は遠い景色のひとつに過ぎない。

 岸辺に降り立ち、アウレアは膝をついた。

 厚手の布越しに、地面の冷気が伝わってくる。

 手袋を外し、そっと水面みなもに指を伸ばした。

 ふ、と指先が水に触れる。

 刺すような冷たさ。

 けれど、不快ではなかった。むしろその鋭い清冽せいれつさが、眠っていた感覚を鮮やかに呼び覚ます。

 アウレアは水の中を覗き込んだ。

 湖の水は、いつもなら水晶のように透き通っているはずだった。

 しかし今朝は、どこか様子が違う。

 底にあるはずの白い砂が、薄い膜の向こうに霞んで見える。

 わずかに、白く濁っていた。

 ミルクを一滴垂らしたような、頼りない揺らぎ。

 風のせいではない。光の加減でもない。

 水そのものが、何かを恐れて震えているように見えた。

 アウレアは水瓶を沈めるのをためらい、ただ指先で水を撫でた。

 円を描くように、ゆっくりと指を遊ばせる。

 すると、変化が起きた。

 アウレアの指が触れている周囲、ほんのわずかな範囲だけ、濁りが晴れていく。

 おりが沈み、透明な色が戻ってくる。

 波紋が広がるたび、そこだけが磨かれた鏡のように、底まで見通せるようになった。

 小石の輪郭、揺れる水草の影。

 すべてが鮮明だった。

 アウレアは小さく息を吐く。

 水が綺麗であること。

 ただそれだけの事実に安堵し、水瓶を沈めた。

 とぷ、と小さな音が響く。

 重みを増した瓶を引き上げると、そこには一切の曇りもない水が満ちていた。

 その時だった。

 視界の端に、白い影が落ちた。

 風が止まったような気配。

 アウレアは顔を上げる。

 数歩離れた場所に、一人の青年が立っていた。

 足音はなかった。

 あるいは、水の音に溶けていたのかもしれない。

 白銀の髪が、朝霧の色によく似ていた。

 瞳は薄い氷の色。

 身につけた衣服は上等な白い織物で、銀の刺繍が施されている。

 けれど、彼自身が発する冷ややかな静けさが、装飾の華やかさを消していた。

 この国を統べる王族。

 その中でも、ひときわ冷徹で美しいと噂される第一王子。

 アウレアはすぐにその場に平伏そうとした。

「そのままで」

 声は低く、そして澄んでいた。

 命令というよりは、懇願に近い響きがあった。

 アウレアは動きを止める。

 水瓶の中の水が、たぷりと揺れる。

 青年はゆっくりと近づいてきた。

 雪を踏む音すらしない。

 アウレアのすぐそばで足を止める。

 彼はアウレアを見るのではなく、彼女の手元にある水瓶を見つめていた。

「……綺麗だ」

 ぽつりと、言葉が落ちる。

 氷が割れるような、硬質で美しい声。

「城の水は、これほど澄んではいない」

 アウレアは顔を伏せたまま、瞬きをした。

 王城の水こそ、国で最も清らかなはずだ。

 けれど、彼の声音に含まれる微かな陰りが、それが事実であることを告げていた。

 王子は屈み込み、アウレアの手の近く、水瓶の縁に指を触れた。

 白く、骨ばった、長い指。

 陶器越しに、ひやりとした温度が伝わる。

「湖は泣いているのに」

 彼が視線を湖全体へと向ける。

 広い湖面は、やはりまだ白く濁ったままである。

 アウレアが清めたのは、ほんの手の届く範囲だけ。

 それ以外は、得体の知れない不安をはらんで澱んでいる。

 この国では、水は心を映すと言われている。

 濁りは国の歪み。

 澄みは調和。

「君が触れると、水は黙るのだな」

 王子が再び水瓶の中を覗き込む。

 揺れる水面は、一点の曇りもなく輝き、彼の銀の髪を映していた。

 そこに、アウレアの姿も小さく映り込んでいる。

「私は……ただ、水を汲んでいるだけです」

 アウレアは小さく答えた。

 言葉が白い息となって漂う。

 特別なことは何もしていない。

 ただ、この冷たくて美しい水が好きで、大切に扱いたかっただけだ。

 静かに、なだめるように接すれば、水は答えてくれる。

 そう信じていた。

「無自覚か」

 王子は、ふ、と息をついた。

 それは笑い声のようでもあり、安堵のため息のようでもあった。

 彼の瞳にある氷のような色が、わずかに和らぐ。

 冬の日の、雲間から差す淡い日差しに似ていた。

 彼は手袋を外した。

 素手を、アウレアの手へと伸ばす。

 触れはしない。

 けれど、その距離の近さに、アウレアの鼓動がひとつだけ強く鳴った。

「探していた」

 王子が呟く。

 その言葉の意味を、アウレアは測りかねた。

 何を、誰を、探していたのか。

 尋ねることはしなかった。

 ただ、水面の揺らぎを見つめ続ける。

 アウレアの周囲だけ、空気までもが濾過されたように清浄だった。

 王子が立ち上がった。

 衣擦れの音が、静寂に吸い込まれる。

 朝の光が強まり、湖面の氷が煌めき始めた。

 遠くの城が、朝霧の中から白く浮かび上がる。

「名を」

「アウレア、と申します」

「アウレア」

 彼はその音を、大切な宝石のように口の中で転がした。

 水面に落ちた雪片が溶けるような、淡く、甘やかな音。

「城へ」

 短い言葉だった。

 拒絶を許さない響きではなく、自然な流れとしてのいざない。

 川が海へ注ぐように、当然の帰結として告げられた言葉。

 アウレアは目をしばたく。

 身分も、理由も、何もかもが釣り合わない。

 けれど、目の前の青年の瞳は、揺らぐことなくアウレアを映していた。

 そこには、理由を問う隙間などなかった。

 ただ、事実として提示されている。

――水が澄んでいる。

 それだけで十分だと言うように。

 王子が手を差し出した。

 てのひらが、天に向けられている。

 その手は大きく、そして頼もしかった。

 アウレアは、恐る恐る手を伸ばす。

 水仕事で冷え切った自分の手が、白く美しい彼の手へと近づいていく。

 躊躇ためらいはあった。

 けれど、拒絶することはできない引力がそこにはあった。

 指先が触れる。

 冷たさと温かさが同時に流れ込んでくる。

 彼の指が、アウレアの手を包み込んだ。

 しっかりとした力強さで。

 その熱が、指先から腕へ、そして胸の奥へと静かに流れ込んでくる。

 王子は何も言わなかった。

 ただ、アウレアの手を引いて歩き出す。

 向かう先は、湖の中央。

 朝日に輝く、白亜の城。

 二人が歩みを進めると、不思議なことが起きた。

 足元の桟橋の周囲、薄く濁っていたはずの湖の水が、ふたりの動きに合わせて澄み渡っていく。

 曇りは晴れ、底の白い砂が鮮明に浮かび上がった。

 水の中を泳ぐ銀色の魚たちが、光の矢のように翻るのが見える。

 アウレアは息を呑んだ。

 美しい、と思った。

 王子は振り返らない。

 ただ、繋いだ手の力をわずかに強めただけだった。

 氷の橋が近づいてくる。

 その向こうにある城もまた、光を受けて輝きを増していた。

 自分がどこへ向かっているのか、これから何が始まるのか、アウレアにはわからない。

 けれど、繋がれた手の温かさと、広がる水の透明さだけが、確かな現実としてそこにあった。

 空を見上げる。

 風が凪ぐ。

 水音が消える。

 世界はただ、ひたすらに青く、澄んでいた。

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