修復作業
古びた図書館。
積み上がった古書の匂いと、長く動いていない空調の気配が混ざり合い、空気は重く沈んでいる。
その最奥で、時雨さんが静かに寝かされている。
意識は戻らず、呼吸だけが微かに生きていることを証明する。
左手は依然として輪郭の境界が曖昧で、ノイズの様に不鮮明だった。
手首から指にかけては揺らぎが激しく、世界から拒絶されているようだった。
その傍らで、凝子さんが床に跪き、包帯へと何かを書き込んでいる。
包帯を裂くような勢いで書いているのに、滲みも、ブレも感じさせない。
包帯は白から黒へ、刻まれた文字により呪物の巻物の様な質感へと変容していく。
凝子さんはただ、一点を見つめているが、何処か遠くを覗いているようでもあった。
淡々と、しかし一心不乱に、”理”を包帯へと縫い付けていく。
「バカ弟子も、健気なもんだねぇ。
これくらいの事なら、本人に書かせればいいものを。」
幻理さんは古い本をめくりながら、ぼそりとつぶやいた。
沈黙に耐えきれず、私は問いかける。
「……時雨さんの左腕って、どうしてこんなふうに?」
幻理さんは、ぱらりと一枚だけページを送ってから顔も上げずに答えた。
「ん? あぁ、詩織は知るわけもないな。
あれは封理派魔法の代償みたいなもんだよ。
魔力の消費が少ない代わりに、自分の“形”が崩れちまうんだ。」
「封理派にとって、肉体は枷としか考えていないんだろうさ。
だから、それを”再利用”する術を創った。
私らは、あまり使いたくもない魔法術式だけどね、
あれは効率がいいんだ──時雨が知っているとは、思ってもいなかったけどね。」
言い終えると、興味を失ったようにまた視線を本へ戻し、
古びたページを静かに読み進めていく。
「あの魔法、たしか……『虚影 崩し』でしたっけ?
封理派では、ただの攻撃魔法みたいな扱いをされてましたけど。
理を託すための集団が、理を崩すなんて皮肉なもんですよね。」
視線は変わらないまま、凝子さんが付け加える。
「まぁ、理の事を理解しているから、”壊す前提”の魔法を創ったんでしょうけどね。」
そういって凝子さんは、包帯への書き込みをさらに、加速させていく。
墨の走る音だけが、古びた図書館の空気をわずかに震わせる。
黒く染まりきった包帯が、時雨さんの腕へと、ゆっくり、しかし確実に巻きついていく。
締められているわけではない。だが、包帯と空間のあいだで擦れ合うように、きしりと低い音が鳴った。
物質の軋みではなかった。
世界が、包帯の形に模られてずれていく音のようだった。
凝子さんは、それを気にせず、ただただ理を縫い付けていく。
「……始まったね。」
幻理さんがようやく、本から顔を上げた。
驚きも、焦りもない声色で、事実を述べる静けさだけがあった。
時雨さんの左腕の揺らぎが、ノイズが包帯の黒と干渉し、微かに波打つ。
まるで世界が、腕という形を思い出しているかのように。
包帯が、淡く光る。
存在が濃くなるような、明るくもないただ古書の紙が空気を吸うように光った。
包帯が、深く深く理へと、沈んでいく。
包帯の光が、いったん弱まり――その直後、ほんの一瞬、きわめて細い線として脈打った。
世界が、時雨さんの左腕を“書き換えようとしている”鼓動”のように見えた。
「すごい……厨二くさい格好になりましたね。」
凝子さんがにやにやと、笑いながらつぶやいた。
「まぁ、見た目は兎も角、しばらくすれば、元に戻りますよ。
さて、師匠。私は寝ますので、時雨に説明しておいてくださいね。」
そう言い終えるや否や、凝子さんはその場で、何のためらいもなく眠り始めた。




