閑話 楽しい? -side 伊吹-
あ、懐かれたなと思った。
澤村愛は、クラスで誰が可愛いかという話になると必ず名前が上がる。だいたい、一番可愛いという話で落ち着く。
そんなに可愛いかと、隣の席のクラスメイトを観察してみる。
全体的に色素が薄く、くりくりした瞳は二重で睫毛は長くてくるんとしている。クセのない長い髪はただ2つに結んでいる。鼻は高くないが桜色のふっくらした唇とバランスはよくて、確かに可愛い。
休み時間になると中根ハナという生徒会書記を務めるしっかり者のところに行くか、学年主席の武藤清嗣という男と話している。
他の人と話しているところはあまり見かけない。
こういう可愛くて友達が少ないのってだいたい性格悪いんじゃないだろうか、というのが初めの印象。
授業中、教科書を開いてペンを持ったままよく外を見ているなぁと思った。教室は2階にあってそんなに見て楽しいものもないのに、と思う。ちょっとその視線の先が気になったのがその次。
授業の変更があったある日、教科書を忘れてきたのか珍しく隣がバタバタしていた。
教科書くらい、見せてと一言言えばいいのに。
見せるよと言ってもらえるのを待っているのなら相当あざとい。
好奇心が勝って声をかけると驚いたように大きな瞳をさらに大きくして、瞬き。
横顔を盗み見ていたときはわからなかったが、瞳は綺麗なハシバミ色だった。そこには困惑と安堵が混じっているように見えた。
授業中ずっとぎこちなくペンを握っていたから、もしかしたら人見知りなだけなのかもと思ったのがまたその次。
放課後、花壇の前で蹲っているのを見かけた。
具合でも悪いのかと声をかけてみると勢いよく立ち上がって唐突に教科書を見せたお礼を言われた。
何をしていたのか問うと、花を見ていたという。全く手入れされていない花壇なのに。
ここまできてようやく、変わった子だと、恐らく、正しい認識をした。
なんだか脱力して、しばらく一緒に花壇を眺めていた。
それから、伊吹はどうやら愛に気に入られたらしく、事あるごとに構ってもらいに来るようになった。好意を隠しもせずに、でも恋愛感情というにはあまりに単純で、それはまるで親鳥を追いかけるようなそれだった。背を向ければ数本後ろをついて来そうだとさえ思わせる。
そういうのなんと言うんだっけ。
そうだ、
「インプリンティング」
「イン…?なあに?」
「なんでもない」
雛鳥というよりは犬だろうか。
チワワ…ちょっと違う。シーズーほど鋭くないし、トイプードルよりぬいぐるみっぽくない。マルチーズよりもっと丸い。
そうだ。ポメラニアン。真っ白で小さくてフワフワの毛で丸くなっている。正にあの感じだ。
伊吹を見かける度に近寄ってくる姿を見てそんなことを思っていた。
何が面白いかわからない話も楽しそうに話すし、大袈裟なくらいに移ろう表情も見ていて飽きなし、煩わしいと思う直前の絶妙なタイミングで引くから、邪険にもできない。
◇◆◇
「伊吹くん!」
パタパタと嬉しそうに駆けてきて、伊吹の隣のブランコに迷いなく座る。
「こんな遅くまで何してたの?」
「澤村さんこそ」
「今帰ってきたの。空、見てたの」
「空?曇ってるのに?」
久しぶりと言いながらブランコを漕ぎ始める。絹糸のような髪が気持ちよさそうに風に揺られる。
「黒い雲に赤が混ざって、茶色にも紫色にも見えるんだもん。不思議な色」
「……楽しそうだよね」
意図せず低くなった声に混じったのは、羨望か嫌悪か。
それなのに愛は意にも介さず聞き返す。
「伊吹くんは楽しくないの?」
楽しい?そんなの。
楽しいわけがない。
ドロドロとした感情がじわじわと滲み出す。
伊吹の家は父子家庭だ。母親は小さいときに亡くしている。母親のことは殆ど覚えてない。
転勤族の父親について、何度も転校したし、仲良くなった友人と離れる経験も何度もした。
今、愛の瞳にはどんな伊吹が映っているのだろう。
愛はゆっくりとブランコを止めて、困ったような、悲しいような色を灯した瞳をそっと伏せた。
何故だろう。今まで周りの友達の質問には答えず交わして軽く流してきたのに、何だか今は吐き出したかった。
ぶつけたかった。
上辺だけの慰めなら何にもならないが、誰かを傷付ければ満たされる。
自分より、傷付いている人を見たら、きっと。
ドクドクと渦巻いた感情は滲み出したら止まらなかった。
「いいよな、お前はっ」
父親が再婚することに反対なわけではなかった。伊吹のためにこの歳まで待ってくれたのかも、とも思う。ただ、中学生という多感な時期に、全く知らない女の人と一緒に暮らすのが、どうしていいかわからないだけで。
「何を見ても楽しそうで!僕は…っ」
ご飯も今までみたいに適当に済ませる必要もない。いい人だとも、思う。
だが息が詰まるのだ。
そのドロドロが形になる直前で、彼女はブランコから立ち上がって、伊吹の前に立った。
感情が言葉にならずに喉の奥で熱くなる。
「怪我したの?」
そっと彼女の手が、伊吹の左胸にふれた。
ハシバミ色の瞳は、悲しみの色を湛えいる。
「痛いね」
まるで、彼女がケガをしたみたいに、痛そうな表情をするから。
「ぁ……っ」
喉の奥の、行き場を失ったそれは、言葉にならないまま。
「ね、こっち来て?」
伊吹の手を引いて、服が汚れるのも気にせずに芝生の斜面に寝転ぶ。
昼間は子どもたちが遊んでいるだろう、そこで。
「草と土のにおいが、落ち着くよ」
「は、」
「ね?」
引かなそうだから、隣に同じようにした。
いつ以来だろう、こんなの。
彼女の言う通り、胸に留まっていたあれは、するすると地面に吸い込まれていくみたいにとけていった。
「…君さあ」
「んー?」
「…なんでもない」
気持ちよさそうに伸びをする愛。
もしかしたら、彼女も、抱えきれない何かを、こうやって癒したのかもしれない。
地面に投げ出した右手の人差し指に、彼女の人差し指が絡む。
大丈夫だよと、小さい子を宥めるかのように。
急激に眠気が襲ってくる。
たぶん、ここのことろあまり、眠れていなかった。
寝付けなかったり、嫌な夢を見て起きたり。
ちょっとだけ…
肌寒くて目が覚めたらとっぷり日が暮れていて、慌てて愛を起こして家に帰った。
顔を真っ青にしていた継母が、とても安心していた。
お風呂を沸かして、ご飯を温めて。
「ごめんなさい。…母さん。」
初めてそう呼べば、継母は微笑んでくれた。
たぶん。うんそう、わかっていたのかもしれない。
自分さえ受け入れてしまえば、怖くはないんだと。
次の日学校で顔を合わせた愛は、気まずそうでも気遣うでもなく、今朝見た猫の可愛さを話してくれた。
彼女の見ている世界に興味を持った。
くだらないと思っていた、毎日通り過ぎていたそれが、どんな鮮やかな色をして、何を与えてくれているのか、見たくなった。
その瞳に自分を映してほしいというその感情を自覚するのに、そう時間はかからなかった。




