高3 耳元で囁いた
「ちょちょちょちょ、待って?あのさ、僕…」
慌てて否定してくれようとする伊吹。
でも違うのだ。きっと。その“すき”は。
「だってね?恋って綺麗な感情じゃなかった。ドロドロして、もう嫌で、顔見るのも恥ずかしくて、会いたくなかった。」
「………」
「伊吹くん、そういう“好き”じゃないでしょう」
愛は自分の短く切り揃えられた爪を見ていた。
伊吹は、長く長く息を吐き出す。
次にどんな言葉が繰り出されるのか、知らず体が強張った。
「僕がいくらヤキモキしてたと思ってるの」
「え?」
「あーもう!武藤は?」
珍しく荒げられたバリトンに、愛は伊吹の顔を見る。
困惑か苛立ちなのか、眉間に皺が寄っている。
「きよくん?」
「気づいてないなら、教えてやる必要ないと思ってたけど。困ったときに頼るのも、甘えるのも、バレンタインのお菓子一番に渡しに行くのも、アイツだろ?」
「え」
「武藤が好きなんじゃないの。恋の、好きで。」
吐き捨てられた言葉とは裏腹に、傷ついたときの表情で。
愛は、その表情に感情に触れたくて、膝立ちで伊吹の頬に手を伸ばしていた。
「ドロドロした感情、ないわけないじゃん。アイツに笑いかけるのも、頼るのも、話してるのだって、嫌だよ。アイツに勝ち誇った顔で自慢されるのだって。」
「え」
初耳だ。
清嗣はたまに意地悪もするが、優しくて頼りになる兄のような存在で、自慢なんて。
「きよくんは、小さい頃から知ってる、お兄ちゃんみたいな人で…」
「そう…」
「きよくんだって、わたしのことは妹だと思ってるし」
「…どうかな」
頬に触れるのは許してくれるのに、膝立ちで見下ろす愛の方は見てくれない。
「そういうの見るたびにイライラしてしんどくて、恋なんて捨てちゃいたいのに、笑顔を見たらそんなのどうでもよくなるくらい嬉しくなるんだよ。」
それは、フイとそっぽを向いて拗ねているようにも見えて。
「…おんなじ?」
「ふふ、おんなじなの?」
「だって、そんなわけ…伊吹くんはたくさん優しくしてくれるのに、わたしは伊吹くんに何もしてあげられてないもん」
伊吹はうーんと唸って、言葉を選んでいるようだった。
「僕、たくさん愛ちゃんに癒してもらってるよ」
伊吹の頬に触れるのがなんだか不思議な感じだ。滑らかで、ちょっとチクチクしている。
「でも、伊吹くんはいつも話してくれなくて」
「ん?」
「何があったとか、つらいとか悲しいとか」
「んん?」
「わたしじゃ、伊吹くんの悲しみとか全部、わけてもらえないと思って」
愛が言うと、しばらく考えて、
「どういうときに思った?」
そう問う。
たくさんあった。
大きな出来事も、些細なことも、ふと1人で耐えようとしている瞬間も、指折り数えたら手が足りなくなるくらいたくさん。
「一緒に公園の芝生に寝っ転がったとき、とか?」
「あー…中学生の頃ね。親が再婚して気持ちの整理できてなかった」
珍しく歯切れの悪い伊吹。
「帰りに肉まん半分こしたとき、とか」
「んー…?なるほど。部活でちょっと揉めたのと、親戚の相続で家がゴタゴタしていて…滅入ってた、かな」
愛は、その全部を話して欲しかったのだ。
それを伝えると、伊吹はうーんとまた唸った。
「誰かに話すって選択肢がなかった…な」
「え?」
ソファに背中を預けて、伊吹は天井を仰いだ。
そしてやっと、伊吹が愛の方を向いてくれた。
「別に…我慢してるつもり、なかった」
「ええ…?」
「だから、そばにいてもらえるだけで、救われてたよ」
「そう、なの?」
ふと、思い出した。
伊吹の母親は小さい頃亡くなって、父親に男手一つで育てられて、親の再婚で落ち着いて、愛と同じ中学校へ編入してきたんだったと。
伊吹は興味本位で聞いてくるクラスメイトたちに淡々と説明して、突っぱねもしないがそれ以上追求もさせなかった。
もしかして、学校であった嫌なことも、寂しいも、誰かに言うことはなかったのかな。
愛が学校で嫌なことがあっても、パパもママも麗も優も話を聞いて、泣いたら慰めて、抱きしめてくれた。
学校ではハナと清嗣が世話を焼いて守ってくれていた。
それは何てあたたかで幸せなことか。
「…なんで愛ちゃんが泣くの」
困ったように眉を下げた伊吹が、あの冷たい刃のようだった伊吹が、愛おしくなった。
「い、いぶきくんが、泣かなかったから、その分わたしが泣いてるっ」
抱き寄せて、伊吹の頭を抱き込むように、ぎゅーっと抱きしめた。
「ひとりで、よく頑張ったね」
寂しいも、悲しいも、つらいも、しんどいも。
もしかしたら、楽しいも、嬉しいも、ひとりで。
愛に見せてくれたあの一面でさえ、きっと誰にも見せないで。
「…ほんっと、愛ちゃんってさあ…」
耳元で呟いた声は、ちょっと湿っていた。
背中に回された腕は、必死にすがるみたいで。
「愛ちゃん、たまにびっくりするくらい大胆なことするよね」
もっともっと愛おしくなった。
それから、ちょっと、同じだけの恋を返してもらえなくてもいいような気持ちになった。
「それで?愛ちゃんの言う『わたしばっかりすき』ってのは聞き捨てならないな。」
伊吹は抱きしめたまま、膝立ちの愛を見上げる。
「僕はずっと愛ちゃんが好きなのに。…恋の、好きで。」
耳に心地よいバリトン。
そうちょっと拗ねて見せる伊吹は、冷たい刃のようでも、寂しそうな表情でもなく、愛の大好きな穏やかな笑顔で。
「伊吹くんがすき」
「何の、好きで?」
愛はふふふっと笑って、内緒話みたいに伊吹の耳元で囁いた。
ーーー恋の、すきだよ。




