高2 いつもより、低い声で。
窓から爽やかな風が入ってきて、校庭を囲むように植えられた木が気持ちよさそうに揺れている。
今芝生に寝転がったら、とっても気持ちよさそう。
「ーーーを、次までにやっておくように」
チャイムが鳴った。
あれ、何をやったらいいんだっけ??
慌てて前を向くと、先生が黒板を消しているところだった。
「愛ちゃん、授業終わったよ」
ドサっと目の前の席に座ったのは同じクラスの坂本伊吹だ。
コレとコレ宿題だよと指さして教えてくれた。
程よく制服を着崩して、癖のない真っ黒な髪をさらりと揺らした。
「何見てたの?」
「あのね、外の木が風で気持ちよさそうに揺れてたから」
校庭の隅を指をさして身振り手振りで話す愛に頷いて付き合ってくれる。
何が楽しいのかこうやって声をかけてくれるから、愛も思わず話すぎてしまうのはいつものこと。
「お昼寝したら気持ちよさそうだなぁって」
「僕も部活やらずに昼寝したいな」
話したいのに、耳に心地よいバリトンをずっと聴いてもいたい。
「愛」
「きよくん」
教室の入り口から声をかけてきたのは清嗣だ。幼なじみの武藤清嗣。
「昼飯行くぞ」
「うん。ハナちゃんは?」
「生徒会行った。あとで来る。」
愛はお弁当を持って席を立つ。
伊吹の方を見ると、いってらっしゃいと手を振ってくれた。
手を振り返して、清嗣の背中を追いかけた。
そんな日常。
◆◇◆
中学生の頃一度、伊吹に聞いたことがある。
「恋ってなあに?」って。
恋人同士になった親友のハナと清嗣が、とても幸せそうに見えたから。
姉たちが恋で悲しんでいたのも知っている。
黒い感情を他人に向ける人もいる。
羨ましかったのかもしれない。綺麗なものに見えたのかもしれない。
わからなくて、よどんでいて、キラキラ美しい、それが。
中学校の一階の隅っこの部屋。
グランドピアノのある音楽室で愛は1人、ピアノと遊んでいた。
ポーンポーンと、軽やかに音を奏でてくれる。
合唱部の各パート練習中は、暇だから。
いや、厳密にいうと暇なわけではないのだが、1人で伴奏の練習をするので、自由に練習をしていいことになっている。
本当は各パートの音取りをやるべきなのだろうが、愛は好きに弾きたくてこうなった。
その日の気分で、課題曲を練習することもあるし、弾きたい曲を弾くこともある。
「愛ちゃんだ」
何を弾こうかと音を出していたら、伊吹がひょこりと窓から顔を覗かせた。
ジャージを着ているから部活の途中なのだろうか。
「伊吹くん」
「部活中?」
「うん、伴奏は1人で自主練だよ。」
「何弾くの?」
「何弾こうかなあって考えてたところ。伊吹くん聴きたい曲ある?」
「んー」
伊吹があげたのは最近流行りの切ない恋の曲。
「なあんて、楽譜もないだろうしーーーえ?」
伊吹が言い終わる前に、ジャーンと弾き始めてしまった。
楽譜通りに弾くのもいいんだけど、好きに弾くのが一番楽しい。
ここはこうアレンジした方が好きだなとか、この旋律が好きってところお思いっきり強く弾いたり、低い音を足して迫力を出したり。
歌詞を口ずさみながら。
きらりんと、最後に好きな高い音で締めて、ふうと一息ついた。
パチパチパチパチ
「すっごい!上手いのは知ってたけど」
「ありがとう」
「弾いたことあったの?」
「ううん、初めて弾いた」
「すご」
それから、時折、部活の自主練の合間にこうやって音楽室に立ち寄っては、リクエストをしてくれるようになった。
伊吹のリクエストは、大抵、恋の歌。
巷で人気の曲は恋の歌ばっかりだし、弾くのはやっぱり恋心を描いた歌が楽しいからいいんだけど。
気になって、訊いてみた。
「恋ってなあに?」
驚いた顔、困った顔、悩んだ顔をした。
「自分の感情が、自分でコントロールできない感じ」
でも、そう答えてくれた。
湖みたいに深い瞳は、静かに揺れている。
その奥で“恋”という激情が垣間見えた気がした。
なあんだ。知らないのは愛だけなのか。
「それって、伊吹くんは恋してるってこと?」
「あー…そうだね」
歯切れの悪いソレに、愛は目を見開いた。
置いて行かれた気分だった。
「いいなあ」
ぽつりとこぼれたそれを、伊吹はちゃんと大切に拾ってくれる。
困ったように眉を下げて。
「…アイツは?」
ポツリと伊吹くんが呟いた。
いつもより、低い声で。
「アイツ…って?」
西陽が強くて、顔は見えない。
「いや、いい。気づいてないならいい。忘れて。」
そろそろ戻るねと、伊吹は背を向けて、音楽室を出て行った。
様子が変だったのはわかるけど、その理由はまるでわからなかった。




