高1 静かな声で
スペインは観光も、美術館も、コンサートも楽しんだ。
急遽だったのにパパがいろいろ手配してくれて、ママやパパの知り合いがいろいろ案内してくれた。
何を言ってるかさっぱりわからないけど、愛は非日常を楽しんだ。
何もなかったみたいに。
考えなきゃいけないことがあった気がするけれど、晴れ晴れとした気持ちで夏休みを過ごした。
ママはもう少しパパのところにいると言うが、愛は一足先に帰ることにした。
飛行機の乗り継ぎもあるけど、初めてじゃないし大丈夫。
緊張であまり眠れなかったけど、楽しい気持ちで帰国した。
大きなキャリーケースには、愛が気に入ったお菓子もたくさん詰めてくれたし。
◇◆◇
家の前に人影がある。
「!!!!!」
現実に引き戻されて、愛は一目散に駆け出した。
「愛ちゃん!」
咄嗟にキャリーケースを放すこともできずに、あっという間に追いつかれて、キャリーケースを持つ手と反対の手を掴まれた。
「あ…や、やだ…離し…っ」
同時に、ふわふわと楽しかった旅行から、急激に現実に引き戻された。
「愛ちゃん、ちょっとでいいから話をさせて!」
よく知ったバリトンが、聞いたこともない焦った声音で。
逃げたいのか、心地よい声を聴きたいのか、わからなくなった。
夏の暑さとは違う、伊吹の指先の温度が、愛のそれと混ざり合う。
それが、嫌悪感ではない、不思議な感覚で、早く離してしまいたい反面、まだその温度を握り返してしまいたい気持ちになった。
どうしていいかわからなくて立ちすくむ。
でも、振り払えない。
「手、握られるのは嫌じゃない?」
愛の手をただ握って、伊吹は静かな声で問う。
掻き乱しているのは紛れもなく伊吹なのに、温かい大きい手はとても落ち着くから、愛は首を振った。
「じゃあ、今度は逃げないで聞いてくれる?」
愛は俯いたまま頷いた。
「僕は愛ちゃんが好き。」
静かに耳元に落とされるバリトン。
「…やっ…だめ、なの…」
「何がだめ、かな?」
何?何がだめなのだろう。
混乱するが、伊吹は愛の言葉を待つ。
夏のじっとりした暑さの中、蝉が叫んでいる。
「あ…う…伊吹くんを好きな人たちが…?嫌な…思いを、する…?」
「うん。それはだめ?」
だめ?だめなのだろうか。
それで、睨まれたり打たれたりするなら、だめ?
「わ、わかんない!」
穏やかでいたいのに、心が掻き乱さらるのは嫌なのに、きっとそれも知ってる伊吹は今はそうさせてはくれない。
「僕、他のたくさんの人に好かれるかはどうでもよくて、愛ちゃんに避けられる方が嫌だけど」
いつになく饒舌な伊吹。
伊吹の言わんとすることがわからない。
「愛ちゃんは、僕より他の大多数の方が大事?」
答えは、「否」だ。
ほんとうは、伊吹の方が大事。
大事な友達は、たくさんいらない。
大事な人が、愛のことをわかってくれて、愛もその人のことをわかっていれば、いい。
大事なものは、新しく増えなくていい。
お気に入りは、手の届くところにーーー
ほんとうのほんとうは、伊吹以外の“誰か”がどう思ってるかなんてどうでもいい。
「…や」
でも、それは…
「何が嫌?僕?」
「そんなわけない!」
見上げた伊吹はふっと微笑んだ。
いつもと何ら変わらない表情で、ほっとするような、心が焦れるような不思議な感覚になる。
伊吹は大好きだ。
それはわかっている。
「じゃあ、返さなくていいから、受け取ってくれる?」
「うけ、とる…?」
「うーん、そうだな、ありがとうって言ってくれたら嬉しいかな」
何故、こんなに穏やかなのか。
何故、その穏やかさが愛の心をこんなにも掻き乱すのか。
「ありがとう?」
「うん。僕が愛ちゃんを好きだって、知っててほしいだけだったから」
夏の暑さと、蝉の叫び声のせいかもしれない。
「今まで通り仲良くしてくれたら僕は嬉しい」
仲直りしてくれる?
という柔らかい響きに、愛は頷いていた。
そして、ほっとしてしまった。
伊吹とこれからも、今まで通り仲良くしていいということに。




