第5話:熱狂のVRと、監視の目
VRヘッドセット『エニグマ・リンク』を外した瞬間、凌の五感は、再び現実の自室へと引き戻された。 耳に響くのは、外を通る車の音と、冷蔵庫のモーター音。鼻をくすぐるのは、冷め切ったカップ麺の匂い。 散らかった部屋の光景は、先ほどまでいたフィリピンの戦場とはあまりにもかけ離れていた。
「……ふう」
凌は大きく息を吐き出した。 体に感じるのは、VRゲームを長時間プレイした後の、独特の疲労感。しかし、その疲れは、妙な充実感を伴っていた。 (フクロウの性能は想像以上だったな。これで、次のミッションも楽勝だ) 脳裏には、先ほどWWOで体験した、強化型エリート兵部隊を音もなく一掃した爽快な戦闘の残像が鮮明に残っていた。
そして、あの少女AI。 凌の脳裏に、怯えながらも、どこか諦めたような、それでいて強い光を宿したルシアの瞳が焼き付いていた。 (あそこまでリアルなAIは初めてだ。まるで本当に……生きているみたいだった) ゲームだ、AIだ、と割り切っていたはずなのに、あの瞳の輝きだけは、凌の心に引っかかり続けていた。
凌は、冷えた麦茶を一口飲み、スマートフォンを手に取った。 WWOの公式フォーラムや、非公式の攻略Wiki、そして動画配信サイトは、常に熱狂的なプレイヤーたちの議論で賑わっている。 ログインするたびに、自身の活躍がどう評価されているか確認するのが、凌の日課となっていた。
案の定、WWOの公式フォーラムは、凌こと「Ryoo」の話題で持ちきりだった。
【速報】ルソン島チュートリアル戦域、Ryooが単独で敵部隊を殲滅!? 「嘘だろ!?あの強化型エリート兵をソロでだと!?」 「またRyooか。運営公認チートってまじだったんか?」 「いや、今回も新兵器使ってたらしいぞ。動画見たけど、まじでヤバい。銃声しないのに敵が倒れてく…」 「エニグマ・ヴィジョンズ社、Ryooにどんなデータ提供してんだよw」
掲示板の書き込みは、凌の予想通り、熱狂と疑惑に満ちていた。 特に、今回フクロウを使ったことで、「新兵器」「銃声がない」といった具体的な情報が、瞬く間に拡散されている。凌の異常な強さは、WWOコミュニティではもはや常識となっていたが、今回は特にその「異質さ」が際立っていた。
「まあ、どうせいつもの反応だ」 凌は慣れた手つきで、スレッドをスクロールしていく。 彼のチート能力は、WWO運営が公認しているかのような振る舞いをしていたため、プレイヤーたちは「Ryooは運営のサクラ」あるいは「運営公認チート」と揶揄するようになっていた。実際、それはあながち間違いではなかったのだが。
その時、凌のスマホに一通の通知が入った。 【WWO運営事務局】より、重要なお知らせです。
凌は、特に気にせず通知を開いた。運営からのメッセージは、大抵がイベント告知か、システムメンテナンスのお知らせだからだ。 しかし、今回のメッセージは、いつもと雰囲気が違っていた。
件名:【Ryoo様へ】WWOにおける貴殿の貢献に関するご報告
Ryoo様
平素よりワールドウォー・オンラインをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。 この度、貴殿のWWO「ルソン島の地獄」ステージにおける多大なるご活躍に対し、深く感謝申し上げます。 特に、貴殿独自の『妄想兵装展開』スキルは、弊社の次世代AI学習プログラムに多大な貢献をしており、その効果は弊社の想定を遥かに超えるものでございます。
貴殿は、WWOにおける「特異点」として、非常に貴重なデータを提供されています。 つきましては、貴殿の今後のゲームプレイに関しまして、一部『特別な調整』を行わせていただく場合がございます。 これは、WWOのゲームバランス維持のため、及び、弊社の研究目的のためであることをご理解いただけますようお願い申し上げます。
今後とも、ワールドウォー・オンラインをお楽しみいただけますよう、心よりお願い申し上げます。
エニグマ・ヴィジョンズ社 WWO運営事務局
凌は、そのメールを何度も読み返した。 「……は?」 「次世代AI学習プログラム?」「特異点?」「特別な調整?」
公式が、ここまで露骨に「チート」を認め、さらに「研究目的」とまで言い切るとは。 凌は背筋に冷たいものを感じた。 彼が漠然と感じていた「運営公認チート」という感覚が、ここまで明確な言葉で突きつけられると、流石の彼もただ事ではないと感じる。
(まさか、俺の《妄想兵装展開》は、最初から運営に把握されていた……いや、むしろ、運営が意図的に俺に与えた能力なのか?) WWOを始めた当時、凌は自分が作成した過去のMODデータを、特に何の気なしにWWOのシステムに読み込ませていた。それが、この《妄想兵装展開》として具現化した。 まさか、その全てが運営の掌の上だったとでもいうのか。
凌は、自身のVRヘッドセット「エニグマ・リンク」を改めて見た。 このデバイスは、エニグマ・ヴィジョンズ社製だ。彼らがこのゲームシステム、そしてVRデバイスを通して、凌の行動や思考パターンを監視している可能性……いや、確信に近いものが生まれた。
(俺は……実験動物、ってことか?)
その考えが、凌の胸に暗い影を落とした。 これまで、ゲームで無双する快感だけを求めてきた凌にとって、自分が「実験台」であるという事実は、彼のアイデンティティを揺るがすものだった。
その時、凌の脳裏に、先ほどのルシアAIの瞳が蘇った。 あの、あまりにも人間らしい、恐怖と希望の瞳。 彼女もまた、この「AI学習プログラム」の被験者なのだろうか。
もし、運営が意図的にAIを「人間らしく」進化させているのだとしたら。 そして、その「進化」に、自分のチートが深く関わっているのだとしたら。 あの少女は……?
凌の心に、これまでとは異なる、漠然とした「責任感」のようなものが芽生え始めた。 単なるゲームクリアだけでは終われない。 この「WWO」というゲームの裏に隠された真実を、そしてあのルシアAIの運命を、自らの手で確かめなければならない、という衝動。
凌は、再びエニグマ・リンクを手に取った。 (ゲームオーバーにはさせない。俺は、このゲームの真実を暴いてやる)
彼の瞳には、かつてのニートの諦めとは違う、新たな挑戦の光が宿っていた。 VRヘッドセットの電源が入り、青白い光が、暗い部屋の中で凌の顔を照らし出す。 彼は、再び『ワールドウォー・オンライン』の世界へと、深く身を投じるのだった。
【第5話・了】