第1話:ニートの日常と、VR戦場の異変
相原凌、34歳。職業、ニート。 いや、厳密に言えば、自宅警備員兼、超没入型VRMMO『ワールドウォー・オンライン』、通称WWOのトップランカー候補。 今日も今日とて、凌はVRヘッドセット『エニグマ・リンク』を頭に装着し、意識をゲーム世界へと飛ばす準備をしていた。
「……んー、相変わらず散らかり放題だな、俺の部屋」
ヘッドセットをかぶる前に、ちらりと現実の自室を見渡す。 冷め切ったカップ麺の残骸、コンビニ弁当の容器、脱ぎ散らかされた服の山。床には漫画雑誌やゲーム関連の攻略本が散乱し、埃が舞う。窓から差し込む朝日は、そんな惨状を遠慮なく照らし出していた。
(まあいい。どうせ、数分後には最前線だ)
現実の汚部屋を前に、凌の顔には何の感情も浮かばない。彼にとって、リアルの世界はもう久しく「ただ生きているだけ」の場所だった。しかし、WWOの中だけは違った。そこには生々しい戦場の熱気があり、己のスキルと戦略が問われる、生きた世界があった。
凌は、VRゲームをやり込むために生きてきたような男だ。特に、過去のMOD(改造データ)制作で培った知識と技術は、並のゲーマーでは到達し得ない領域にあった。しかし、それが現実社会で役立つことはなく、いつしか彼は「社会不適合者」の烙印を押され、引きこもるに至っていた。
「ログイン、完了っと……」
頭に装着したエニグマ・リンクから、ひんやりとした感覚が脳に伝わる。 一瞬の浮遊感。 次の瞬間、凌の意識は完全にWWOの世界へと没入した。
視界が晴れると同時に、五感を強烈な刺激が襲う。 湿った土の匂い、遠くで響く銃声、焦げ付くような硫黄の匂い、そして生々しい血の鉄臭さ。 肌に感じるのは、フィリピンの熱帯特有のまとわりつくような湿気と、泥に汚れた軍服のザラつき。 WWOは、そのリアリティにおいて、他の追随を許さない。運営のエニグマ・ヴィジョンズ社は、「究極の現実を創造し、人間の可能性を拡張する」という理念を掲げているが、その謳い文句に偽りはない。
「…………また、ここか」
凌のVRアバターは、旧日本兵の姿をしていた。階級は二等兵。 WWOの「ルソン島の地獄」ステージ。史実では敗色濃厚だったフィリピン戦線での、日本軍敗残部隊の一兵士として、彼は何度もこの地で目を覚ましている。
HUDには、半透明のUIが表示されている。 左上には凌のアカウント名「Ryoo」と、HPゲージ。右下には装備中の「三八式歩兵銃」と弾薬残量。そして、中央には大きくメッセージが点滅していた。
《ようこそ、ワールドウォー・オンラインへ!》 《ルソン島の地獄ステージ、チュートリアル戦域へようこそ!》
「チュートリアル戦域……って、これが地獄じゃねーか」
凌が思わず呟くと、近くにいたNPCの日本兵がギョッとしたように振り返った。 「貴様!何を言っている!敵襲だぞ、敵襲!前線へ急げ!」 高倉陣中尉。凌が何度もこのステージで出会っている、優秀なNPC中隊長だ。彼のVRアバターは、まるで生身の人間のような精悍な顔つきをしており、その声も、AIとは思えないほど感情がこもっていた。
その時、遠くで爆発音が響き、土煙が視界を覆う。 「うわああああ!」 「くそっ、奴ら、側面から回ってきやがった!」
周囲のNPC兵士たちが、リアルな悲鳴を上げながら次々と倒れていく。 WWOでは、NPCがダメージを受けると、血飛沫のエフェクトと共に、リアルな断末魔を上げて崩れ落ちる。彼らのHPゲージがゼロになると、光の粒子となって消滅するのだが、その演出はあまりにも生々しく、凌は何度経験しても眉をひそめてしまう。
(来るな、来るな……)
凌は身を隠していた物陰から、銃を構える。 三八式歩兵銃。史実では信頼性の高い銃だが、連射性能は低い。しかし、凌の手に握られたその銃は、なぜか異様なほど滑らかに動いた。ボルトアクションの動きは驚くほど軽やかで、銃身には微塵のブレもない。
《スキル『銃器自動整備:Lv.MAX』が発動中》
HUDの隅に、見慣れたメッセージが小さく表示された。 これこそが、凌がWWOで「無敵」と称される所以の一つ。 かつて彼が、特定の銃器の性能を極限まで引き上げるべく、MODとして組み込んでいたデータが、WWOのシステムによって「チートスキル」として変換・実装されているのだ。
「――ッ!」
茂みの向こうから、米兵NPCが一人、走り出てきた。 M1ガーランドを構え、凌のいる方向へ向かってくる。
凌は冷静に、三八式歩兵銃のスコープを覗き込んだ。 その視界の中で、米兵NPCの体が、赤くハイライトされる。さらに、彼の動きの軌跡が、まるで残像のように白い線で追尾される。
《スキル『超人的索敵:Lv.MAX』が発動中》 《スキル『弾道先読み:Lv.MAX』が発動中》
これもまた、凌が自身で作り上げたMODが変換されたチート能力。 敵の動きを先読みし、命中弾の軌道を予測できる。 凌は、米兵が茂みから完全に姿を現した瞬間を狙い、引き金を引いた。
ドンッ!
小気味よい反動が肩に響く。 放たれた弾丸は、一直線に米兵NPCの頭部を貫いた。 「ぐぅあ……!」 米兵は短い呻き声を上げ、血飛沫を散らしながら、糸の切れた人形のように地面に倒れ伏す。HUDには「HEADSHOT!」の文字が表示された。
(よし、一発)
凌はすぐに次弾を装填する。 彼の耳には、味方NPCたちが放つ銃声や、敵NPCの悲鳴、そして指揮官である高倉中尉の怒鳴り声が、空間オーディオで立体的に響き渡っていた。
「Ryoo!貴様、何故そこにいる!援護せよ!」
高倉中尉が、凌のいる方向を向いて叫んだ。 その視線の先には、凌がたった一人で、次々と敵を撃破していく光景があった。
「ま、まさか…!あの動きは…!?」
高倉中尉のAIの瞳が、僅かに混乱の色を浮かべる。 凌の異常なまでの戦闘能力は、高倉中尉のAIの想定する「人間」の範疇を超えていた。
凌は、まるでダンスを踊るかのように軽やかに移動し、物陰から物陰へ。 《超人的索敵》で敵の位置を完璧に把握し、《弾道先読み》で敵の攻撃を紙一重で回避。 そして、《銃器自動整備》で常に完璧な状態の三八式歩兵銃から、正確無比なヘッドショットを連発する。
WWOの運営が、彼のチートを放置している理由は分からなかった。だが、そのおかげで、凌は現実では決して得られない「無双」の快感を、このゲームの中で味わうことができていた。
《米兵NPC:20体撃破!》 《ボーナスポイントを獲得しました!》
HUDに表示されるスコア。凌は、たった数分間で、小隊規模の敵を一人で殲滅したのだ。
激しい銃撃戦が嘘のように静まり返った戦場に、高倉中尉がゆっくりと凌に近づいてくる。 彼の表情には、警戒と、そして畏怖の念が入り混じっていた。
「貴様……一体、何者だ?」
高倉中尉のAIは、凌を「理解不能な存在」として認識したようだ。 凌は、無言で銃を構え直す。このNPCのリアルさには、さすがの凌も感心する。
その時、HUDに新たなシステムメッセージが点滅した。 それは、凌が待ち望んでいたメッセージであり、同時に彼のゲーム体験を、そして人生を大きく変えることになる予兆だった。
《新イベント:『緊急補給物資奪取作戦』が発生しました!》 《――目標:【九七式改一 特殊偵察銃】》
凌の脳裏に、かつて自分がMODとして設計した、夢想の兵器が閃光のように駆け巡る。 (来るぞ……俺の、切り札が!)
ニートの日常から飛び込んだVR戦場。 そこには、ただのゲームではない、何かが始まろうとしていた。 凌は、不敵な笑みを浮かべ、次なる戦場へと足を踏み出すのだった。
【第1話・了】