前編2
翌朝、港の掲示板に張り出された一枚の紙が、町の人々の注目を集めていた。
《告知》
海災獣≪海竜ギロア≫討伐隊、編成中。
参加希望者は7日以内に港の衛兵詰所まで申し出ること。
報酬:討伐成功時、金貨50枚+特別通行許可証。
アストラリア海諸島王国カリリオ騎士長ファルク・ジスト
「ギロア討伐……本当にやるんだ」
シルアは紙を見上げながらつぶやいた。
ファルク・ジスト。アストラリアの騎士の名家の出身であり、民のために剣を振るう若き騎士。カリリオ港の騎士長である彼が告知主ということは、これは本気の作戦だ。
「でも……」
視線を落とすと、指先が震えているのに気づく。
自分が行ったところで、戦えるわけではない。ただの薬屋の見習いにすぎない。
それでもシルアの中には確かな決意が芽生えていた。
その夜、彼女は両親に口を開いた。
「わたし、ギロア討伐隊に参加したい。……海鳴草を、取りに行きたいの」
母親は目を見開いた。父親も箸を止める。
「バカなことを言うんじゃない、シルア。向こうは今まで交易船を何艘も沈めてきた海竜だぞ? おまえに戦える力は――」
「戦わない。わたしは調薬師として同行したいの。薬の知識はお父さんやお母さんに負けないくらいある。負傷者が出れば治療できるし、戦えなくても、役に立てるはず」
「だが……!」
父が語気を強めようとしたとき、母が手で制した。
静かに、けれども真剣な眼差しで娘を見つめる。
「その覚悟は、あるの?」
シルアは、ゆっくりとうなずいた。
「エリュシアの命がかかってる。今しかないの。……だから、行きたい」
沈黙が流れる。
やがて、父が深くため息をついた。
「……騎士団の許可が下りれば、だ。船の上でも討伐隊となる騎士様の後ろに立って、危ない行動はとらないと約束しろ。それが条件だ」
シルアの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう……! 絶対、無理はしない」
数日後、衛兵詰所で面会したファルク・ジストは、シルアの申し出に驚きつつも真剣に話を聞いてくれた。
「調薬師……なるほど。たしかに戦場には癒し手が必要だ」
真っ直ぐな目で彼女を見つめるファルクは、若いながらも威厳があった。
「海鳴草を求めて来たのなら、おまえにとっても意味のある航海だろう。だが、危険な航海だ。最悪、途中で船が沈められ、命を落とす可能性がある。それでも構わないか?」
シルアは、ためらわずにうなずいた。
「はい。私は、必要な薬を手に入れるために行きます」
ファルクはわずかに笑い、頷いた。
「いいだろう。名を聞いてもいいか?」
「シルア・ミンフェル。カリリオの調薬堂の見習いです」
「よし、シルア。おまえを《補助調薬師》として討伐隊に加える。準備を整え、二日後の出航に備えよ」
その日の夜。
カリリオの星空は晴れ渡り、潮風が静かに薬草の棚を揺らしていた。
シルアは一人、調薬台の前に立っていた。
旅に持っていく薬草、調剤粉末、調合器具。
一つひとつを丁寧に揃え、最後に白い小瓶を手に取る。
それは、母が彼女に託した“静謐の薬”。
「これは私が昨日あなたが討伐隊に加わりたいと話した後、調合した薬。強力な薬草を複数配合していて、病気の人に使えない薬じゃないような薬よ。使ったものに心を安静に保ち、一時的に感情が強烈に抑制される作用がある。パニックになりそうな時、恐怖に飲まれてうごけないとき、......そして本当はこんなこと言いたくないけれど、......自分ではどうしようもない状況になってしまった時、あなたの心を静めてくれる......ためらわず使いなさい」
無機質な白い小瓶をぼんやりと眺めながらシルアは思う。
――まだ未熟な調薬師にできることは少ないかもしれない。
けれど、誰かの命を救うことはできるかもしれない。
その信念だけを胸に、シルアは静かに頷いた。
(わたしは、海に出て、必ずエリュシアを救うための航路を切り開く)
シルアの決意を後押しするように新しい風が、港町に吹き抜けた。