98話
現状の把握に困った顔をするブランシュ。なぜこれほどまでの腕で無名なのか気になる。
「それと同時に、もっと話題になっててもいいような気もしますけど……」
コンクールなどはともかくとして、学園内でも知られていない。ヴィズ達もとりたてて褒めてもいない。気になる。
顎に人差し指を当て、考える仕草をしながらベルは答える。
「まぁ、一時期辞めてた時期があったからね。それにそう、さっきも言ったけど、なーんかいつも、ピアノが合わないの。弾きづらいというか。でも今日はすごい弾きやすくて、いつもこうだったらいいのに」
うーん……と、今度は腕を組んで悩む。ノリに乗れている時の演奏はいいはず。なんでかね、と自身に問いかける。
それをブランシュは冷静に分析してみた。
(調律にかなり左右される、ということですか。たしかに、その人専用のピアノならともかく、プロのリサイタルやコンサートでもない限り、合わせてくれることはありません。でも、なぜ今日に限って?)
それと、ブランシュとフォーヴは実際に合わせたからわかることがある。ピアノではありえない技術。理論上、可能であり不可能。驚愕すべき。
『ビブラート』している。
ビブラート。音を震わせる、揺らすテクニック。感情をより鮮明に表現することができる。
ピアノは弦をハンマーという機構で『打つ』楽器であり、打った後の音は少しずつ消えていくのみ。ヴァイオリンやチェロのように、指で押さえた弦を震わせて、音を揺らすことはできない。これが不可能な理由だ。
ただし、鍵盤を押した際、若干ではあるが『遊び』の空間が存在する。ギチギチと詰まっていては、鍵盤が押し込まれたり戻ったりする動作に支障が出るため、ほんの少しだけ緩さがある。ただし、緩すぎては弾きづらさを招き、固すぎては表現力の欠如に繋がる。そのため、〇・〇一ミリ単位での、その人物に合った『遊び』を作り、押した瞬間に震わせることで、理論上はビブラートは可能となる。
ただしあくまで『理論上』の話であり、高速で動かす指が、狙った鍵盤で〇・〇一ミリの単位で動かすなど、それこそ技術の極致にある。だが。
(信じられないことですが……たしかに要所要所でビブラートしていました。この方は一体……何者なんですか……? いや、それよりもそれを可能にした調律師。これもまた超一流。こんな世界があるんですね……)
ただ、先の通り、かなり調律に左右されるという揺らぎは、長所でもあり短所でもある。ブランシュと同じで、常に限界値の演奏ができないという点では、安定感がない。ヴィズ達三人との優劣はやはりない、とブランシュは考える。どの方もそれぞれの良さが突出している。
(まいったね、そこそこ自分の腕に自信はあったんだが。こんなの聴いちゃったらね。また一から鍛え直しだ)
先を見据えると、吐きそうになるくらい果てしない道のりだが、不思議とフォーヴは楽しいという感情に包まれている。たった一〇分で人は変わる。




