95話
「ですね。次々と変わる調や拍子やテンポ、アンサンブルとソロの調和。完璧に完成された一作と言っていいでしょう。ゆえに、リードするときのピアノの難易度はハネ上がります」
以上。メンデルスゾーンのピアノ三重奏、通称『メントリ』の難しいところ。かなり簡素化したが、本当ならもっとある。トレモロやオクターブ。その他。
いきなりメンデルスゾーンをやろうというベルに、若干の疑いの眼差しを両者は向ける。
が、肩身狭そうにベルも反論する。
「……弾けるもん……」
もちろん、責め立てるつもりではない。それくらいの気概があるということ。大事なことだ。そうだ、上を目指すことは大事だ。うん。ひとりごちたフォーヴは、改めて依頼する。
「信じ難いが、頼んだよ、ベル」
「……信じてない……」
明らかにベルは不満そうだが、それは演奏で明らかにすればいいこと。ブランシュは空気を変える。
「そんなことないです。とりあえず行きましょう。まもなく食堂も閉まりますし」
一応、学校自体は休日ではあるので、働いている人も少ない。そのため食堂は朝昼晩以外は開いていない。話をするにもなにをするにも、移動が義務付けられる。
ホールへの道の途中も、ベルは俯きながら小声で呟く。
「うー……でも、たしかに学校のピアノだと、なんかうまくいかないんだよねぇ。家のピアノならうまくいくのに……」
環境が変わると実力が出ない人はいる。特に、ピアノは持ち歩けないこともあり、普段と違うもので勝負しなければいけない。弦の張り具合も、温度によって変わってしまう。鍵盤の重さ、跳ね返り。よほどいい調律を施されていないと、感覚が変わってしまって逆効果ですらある。
「仕方ないですよ。ピアノのメーカーにもそれぞれ特徴があったりしますから。プロのピアニストだと、同じメーカーじゃないととか、自分がいつも弾いてるピアノじゃないと、という人もいますし」
ピアノというものは非常に曖昧だ。『正しい』ものは何一つない、と述べている偉大なピアニストもいるほど。音楽用語も時代と共に移ろってきた。例えばアレグロも、『速い』だけではなく『楽しい』という意味を持っていたし、その後『より速く』という風に変化している。その作曲家当時の記号とも変わってきている。
「そういうのともなんか違うんだよねぇ」
ピアノを弾く感覚も人それぞれ。指を伸ばす人、曲げる人。イスの高さにこだわる人、立って弾く人。弾く時は必ず裸足という主義の人もいる。ベルの感覚が学校のスタインウェイと合わないのも、ある意味で仕方ない。
(そういえば、前にヴィズさん達が言ってましたけど、ベルさんもノエルのリサイタルがあるのにいいんでしょうか)
以前、リサイタルの話が出た時、ベルの名前があった気がする。とすると、なんか普通に手伝ってくれているが、いいのだろうか、という気持ちには若干なる。本人が何も言わない以上、ありがたく受け取るが、少しブランシュはモヤモヤする。




