90話
「……そうか、これが『無伴奏チェロ組曲』か。なるほど、素晴らしい」
握りしめたアトマイザーを、大事そうに、愛おしそうに眺める。ここに想いが詰まっている。なんと美しいことか。
一応、雰囲気を壊さないようにしつつ、ブランシュは付け足す。
「とは言っても、私の感覚なので、実際に他の方々がどう感じるかは、わかりません。しかし、これが私の『無伴奏チェロ組曲』です。あ、あと少し寝かせてからのほうが、アルコールが飛んで香りが丸くなります」
数日間、できれば置いておきたいが、逆にいえば出来立ての香りは今だけ。それはそれで味わってもらいたい気もする。ベルギーに戻ったら、どうなったか感想を聞きたい。
「いや、そうか。そういうことだったのか。長らくつっかえていたものが取れたような、そんな清々しさだ。本当にありがとう」
手首にもフォーヴは少し付けてみる。チェロを弾くとき、ほのかに香ってくれたらいいな。あのパブロと一緒に弾いている気分になれる。それはとても素敵なこと。
すると、携帯を取り出したニコルがニヤッと笑う。計画通り、といういやらしさが垣間見える。
「こっちも動きがあったよ」
「なんのですか?」
ブランシュに問われ、届いたメッセージの内容をニコルは伝えた。
「ピアノ。ダメもとで一応、爺さんが当たってくれたんだけどさ、オッケーだって。いやー、よかった。これで形になる。ブラボーブラボー」
パンッ、と手を叩き、一応の収束を祝福する。懸念していた部分はこれで問題ない。あの人であれば、仕上げてくれる。むしろ、あの人が主役になってしまうかもしれないが、それはそれでいい。それはそれで面白い。
ひとり喜ぶニコルを、怪訝そうな目でフォーヴは見つめる。どこまで信用できるのか。
「その人の腕前はどのくらいなんだ? それによって、期待値は変わってしまうがね」
引き受けてくれるだけでありがたいのは事実。だが、あのブランシュの腕前を見て、どう思うのだろうか。どちらかといえば、心配になる。
「有名なピアニストってどんなのがいるの? 女性で」
携帯で返信しながら、ニコルが問う。
有名? ピアニスト? 女性? 二人は唐突で面食らったが、クラシックに通じていれば、楽器は違えど何人かは思い浮かぶ。
「幅広いね。古くでいえばシューマンの妻、クララはショパンですら認めた腕だったというし、二〇世紀以降でもデ・ラローチャ、アルゲリッチ、内田光子、リシッツァ」
フォーヴがあげたのは世界的なピアニスト。一〇人あげろと言われれば、まず間違いなく入ってくる人選だ。女性、というくくりですらなくても、充分に候補にあがる。
ブランシュも有名どころをあげる。こちらも一〇人の中に入るだろう。
「フジ子・ヘミングにピレシュ、ユジャ・ワンなども有名ですね。でもどういう関係が——」
「それくらい」
ピシャリと言葉を遮るように、ニコルが言い切る。
「はい?」
それくらい? なんの話? と、ブランシュは困惑する。今の言い方だと、まるで世界的なピアニストと同じくらいの腕前、という意味になってしまう。
しかし、再度ニコルは確実に言い切る。
「実力が。たぶんそれくらい。なはず」
はぁ、と落胆気味にブランシュは大きなため息をついた。
「ありえません。彼女達は世界的なピアニストです。そんな人がいたら、埋もれているわけがありません。私達と演奏してくれるなんてとてもじゃありませんが」
その意見には、フォーヴも首肯する。
「同感だ。そのお爺さんがどれだけの人なのか知らないが、さっき頼んでもうオッケー、なんてありえないね。人違いだろう」
……あれ、ちょっと待ってください、とブランシュは冷や汗をかく。お爺さん、と言うのはギャスパー・タルマ。フランスを代表する職人。権力はあるはず。ということは逆に本物の可能性上がってません? と、脳内で葛藤した。
疑いの視線を向ける二人に、ニコルは立ち上がって応戦する。
「だーもう、本物かどうかは明日聴いてみればいい! はい終わり、ご飯行こー!」
さっさと切り上げ、食堂へ。一応、学校は休みだが、朝昼晩は開いている。難しいことはとりあえず、お腹を満たしてから。外に食べに行くのもいい。
やれやれ、とフォーヴは肩をすくめた。
「それもそうか。しかし、その子には悪いね。感謝はさせてもらうけど、世界的なピアニストと並べられて、期待値だけ跳ね上がってしまった」
「そ、そうですね……」
どっちだろう。本当にわからない。そもそもギャスパー・タルマ氏が我々に協力してくれているということも、本当に世界的な実力のあるピアニストがいるのかも、いてもそんなすぐに了承してくれるのかも。ブランシュは頭が混乱してきたのを感じ、深呼吸でリセットする。
(ですがもし、本当にそんな方がいるのであれば……私は、もうひとつの——)
「早く行くよ、お腹空いたー」
置いて行くよ、とニコルが催促する。あと五秒だけ待つ。それで来なければ本当に置いて行く。食欲の前には、姉妹の繋がりなど無いに等しい。
「ニコルは何もしていないだろう。なんでそんなことになっている」
準備をしつつも、呆れたフォーヴが冷静に処理する。思い返すがやはり何もやっていない。
「クラシック聴いてるだけでカロリー減るのよ。ダイエットいらず」
呼吸をするように嘘をニコルはつく。
「……」
その光景が目には入っているのだが、ブランシュは思考するには至らない。頭を通り抜けて行く。忘れよう。今は香水を作ることに集中しなければ。もうひとつは、いつかゆっくり考えればいい。




