63話
「わかった?」
だから頷いたって。そう言いたいが、両頬の自由を得たブランシュは、とりあえず了承する。
「は、はい……」
初めて怒られたかもしれない。いや、なんで怒られたんだろう。と、ブランシュの頭の中をグルグルと不満が渦巻く。
そして、いつものようにニコルのワガママが拍車をかける。
「よし、じゃ、なんか弾いて」
ドカッとベッドに腰掛け、今の気分に合った曲をブランシュにリクエストする。
「ここで、ですか?」
わかっているはずだが、ここは寮の部屋。防音もない。当然ながら、ヴァイオリンを弾くためにはできていない。橋の下で弾くことが習慣になっていたブランシュも、部屋の中で弾いたことはない。第一、近所迷惑だ。だが。
「まわりは実家に帰ってていないし、大丈夫でしょ。今の気持ちを弾いてみて」
今は万聖節。迷惑がる寮生もいない。いや、少しははいるか。いたらいたで、どうせ暇してる奴らでしょ、とニコルは考えた。なら、一曲弾いても問題はない。むしろ、朝の目覚めにちょうどいい、感謝まで要求したいくらい。
こうなると、反論しても長引くだけなので、ブランシュは大人になる。世界一のワガママな妹。
「……わかりました」
ヴァイオリンケースを開け、全長六〇センチほどの弦楽器と弓を取り出す。鈍く光る木材。あごを乗せ、鎖骨と肩で挟む。ブレてはいい音は出ない。姿勢も大事だ。どんな時でも、こういった突如リクエストされた場合でも、手を抜くことはない。そんな変なクセはつけたくない。
ディートリヒ『F.A.Eソナタ 第一楽章 アレグロ イ短調』。Frei aber einsam。自由、しかし孤独に。
シューマン・ディートリヒ・ブラームスの三人が合作した『F.A.Eソナタ』。三人の共通の友人であるヨーゼフ・ヨアヒムの誕生を祝して作成された。自由、しかし孤独に、というのはヨアヒムの座右の銘。ブラームスの作曲した第三楽章を演奏される機会は多いが、その他の楽章はあまり演奏されない。
しかし、ブランシュは好んでこのソナタを弾く。自分自身に合っている気がして。
弾き終わると、目を瞑り、深く思案しながらニコルは言い切る。
「わからん」
首を振り、噛み締めるように「わからん」と言い放つ。
「なんですか、それ」
ヴァイオリンを丁寧に拭き、ケースにしまいながらブランシュは頬を膨らませる。勝手に弾かせておいて。でも結局、私はこの人に惹きつけられる。自由気ままで、ガサツで、勝手に私のお菓子を食べるこの、妹に。
たまに自分自身がわからなくなる時がある。ここ最近、目まぐるしく環境が変わったからか。それとも、他の要因なのかわからない。それでも、ニコルと、一緒に音楽を楽しんでくれるヴィズ達。それだけでいい。いつまでも、こうして生きていけたら。
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