57話
ベートーヴェンのロマンス第二番。ロマンスといっても、愛についての曲ではなく、『自由な形式の、甘美で叙情的な曲』という意味で作られた曲。超絶技巧の曲というよりは、心に染み入るような、どこまでも遠く響いて包み込んでくれるかのような、優しい音色。
フランスでは一〇月下旬からは二週間の休みに入る。いつもであれば日曜の早朝、人の多くない時間帯にどこかの橋の下で、気の向くままに演奏するだけだったブランシュ・カローにとって、この時期以降の朝の寒さは、ヴァイオリンの寿命を縮めることになる、と判断した。
ヴァイオリンは木でできている。なので寒いと縮み、暑いと膨張する。それを繰り返すとヒビが入るなどの、何かしらの不具合が生じる。そのため、あまり温度変化を感じさせないように取り扱うのが正しい。しかし、音楽科ではないブランシュが趣味のヴァイオリンに興じるには、音楽科のホールは気持ちの敷居が高かった。
(ただの趣味でしかない私が、みなさんを差し置いて使用するなんて、もってのほかです)
そう決めたからには、彼女は絶対にひとりでホールを使うことはしない。が、今は万聖節。みな、実家に帰っている。ということはホールを使う者はいないということ。ブランシュは故郷のグラースから出てきたばかりであるため、今年は帰るつもりはない。つまり使い放題ということ。
(この時期、この時期だけです)
誰かに言い訳して、予約し使わせてもらう。一秒から二秒の反響が素晴らしいとされるホール。このホールは約一・八秒。素晴らしい反響だ。自身の腕が上がったように錯覚してしまう。甘美で叙情的な部分が、より強調される。誰もいないホールで、好きなように弾くだけ。上手くなろう、などは考えない。プロを目指しているわけではないから。だが。
(……ここは、こう弾くべきでしょうか)
欲が出てしまう。上手くなるかどうかは、ただの結果。楽しく、誰からも縛られず弾いた結果の副産物にすぎない。にも関わらず、上手くなりたいと願う。
(私は……)
悩みつつも時計を確認する。ホールには時計はない。腕時計を外してカバンに入れた。残り時間は七分ほど。気づかずに二時間も弾いていた。さすがに疲れた。
(私は……)
もう一度、自分自身に問いかけてみる。自分自身以外にも問いかけてみる。誰か。しかし、誰も答えてはくれない。
続きが気になった方は、もしよければ、ブックマークとコメントをしていただけると、作者は喜んで小躍りします(しない時もあります)。




