56話
「……今朝もエッフェル塔は美しいです」
日曜日。
一〇月後半の早朝ともなると、外で演奏するのは少し肌寒い。最低気温は一○度ほど。乾燥と寒さで、木でできている楽器は割れやすくなる。急激な温度変化も割れる原因となる。少しずつ楽器は温度に慣れさせることが重要だ。
現在、学校は万聖節で休みの期間に入っている。生徒はそれぞれ、故郷に帰り、墓参りなどをして過ごしているようだ。
ブランシュも故郷のグラースまで帰る予定はあるのだが、心残りがひとつある。それを今、一六区のグルネル橋で待ち続ける。その間、いつものように、ランダムで引き当てたシングルノートの香りをまとい、ヴァイオリンを弾いている。防寒のために着たベージュのトレンチコート。少し弾きづらいが、寒さには勝てない。
(……優しく、まるで過去の記憶が蘇るような……エレミの香り)
引き当てたのは、柑橘のような香りに加え、少しスパイシーさも併せ持つ東南アジア原産のバルサム調の香り。その香りを元に、今の気分を表現する曲を奏でる。どこか、以前よりも自信と力強さに溢れているようにも見える。橋の中洲にある自由の女神像が、優しく微笑んでくれている。
(タイスの瞑想曲……美しく、儚く、それでいて甘美な曲)
マスネ作曲『タイスの瞑想曲』は、四世紀のエジプトでの娼婦のタイスと修道僧アタナエルの愛の物語。贖罪のために、三ヶ月眠らずに祈り続けたタイスが、天国で天使たちが迎え入れてくれることを思い描きながら旅立つ。信仰を忘れ、愛を叫ぶ修道僧のアタナエルという真逆の性質を持った、皮肉の効いた結末。
弾き終わると、後方からパチパチと拍手する音が聞こえる。ヴァイオリンをケースにしまいながら、ブランシュは振り返らない。
「今回は早かったですね」
ライダースジャケットとロングスカートを着込み、サングラスをしたその女性は、「まぁね」と簡潔に答える。
「私はすぐいなくなったけど、あの後どうなったの?」
ケースを右手に持ち、目の前に流れるセーヌ川を見ながら、昨日の演奏をブランシュは思い出す。
じゃんけんで勝ったカルメンがピアノを担当し、三〇分弱の演奏をホールで行った。「リサイタルは私となんだけど」「今のあと出しだろ」と演奏者に不満を述べる者たちもいたが、「見苦しい」とカルメンは一蹴した。曲目はブラームス『雨の歌』。緊張とリラックスが適度に合わさり、自信しかなかった。
「結局、欠けていたものってなんだったの?」
女性が、その細くて小さな背中に問いかける。彼女の吐息が冷やされ、空に白く立ち上っていくのが見える。
「『アルテミシアリーフのドライフラワー』。表現したかったものはブラームスの心の《揺らぎ》。葛藤と言ってもいいかもしれません」
「葉っぱを直接入れたの?」
ブランシュはコートのポケットからひとつ、薄い桃色のアトマイザーを取り出す。小さな葉っぱの欠片が入っている。
「これが、今の私の精一杯です」
背中越しだが、女性にはブランシュが笑顔でいることがわかる。つられて自分もため息混じりの笑みを浮かべた。
「チップは? どこに入れるの?」
一枚の紙切れを指で挟み、女性はコツコツとショートブーツが音を立てながらブランシュに近づく。
愛犬を抱きながら散歩する老人、健康のためにランニングをする中年の男性。この時間の橋には様々な思惑の人々が集まっているが、ブランシュと女性は二人だけの世界にいるかのように、周りの音は聞こえない。お互いの声だけが交差する。
「それでは、直接いただけたら」
振り向きながら、女性に笑顔を向けるブランシュは右手を差し出した。白く、小さな手のひら。
そこへ目がけ、笑顔を返した女性は四つ折りにした紙をトン、と置いた。
「次の曲だよ、お姉ちゃん」
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