55話
「い、いや、なにもそこまで……とりあえず、申請を出してもらえればいいからね。身分証と、ご家族の承認さえあれば……」
なにか事情がありそうな雰囲気を悟り、慌てて寮長は止めにかかる。
「……身分証は……たぶん、ありません。やっぱり出ていきます、短い間でしたが、お世話になりました」
「あればここ住んでいいの? ほんじゃ、これ」
時が止まる。
ふと、廊下の方から、悪いことを考えていそうな声が聞こえた。コツコツとタイルを叩くショートブーツの音が近づいてくる。
「ごめんごめん、おばちゃん。出し忘れてたの思い出してさぁ。急いで取りに行ってきたのよ。それくらい許してよ。ねぇ?」
「……ニコルさん」
初めて会った寮長に対しても、いつもの姿勢を崩さない彼女がそこにいる。ブランシュは呼吸が止まった。
いきなり現れた女性に寮長もたじろぐ。肩に手を置かれ、紙を手渡された。初対面なのにいきなり距離が近い。
「ど、どちら様? 噂の妹さん? 編入届……ここの学生になるっていうこと?」
編入届の写真と本人の顔を見比べて、確認を取る。間違いはない。正式に発行されたものである。裏面なども丁寧に確認するが、こちらも問題はない。
「言うのが遅くなった。ほら、身分証見て。『ニコル・カロー』、家族の承認もほら」
ICチップの入った、カードサイズの身分証を女性に提示され、確認。寮長はやっとニンマリと笑う。なにやら騒いではいたが、気のせいだったと結論づける。
「……たしかに。だったら先に言ってくれればよかったのに、変な噂立っちゃってたわよ」
「だからごめんて。私から寮生には言っとくからさ、これからよろしく」
肩に置かれていた手が離れ、女性から握手を求められる。快く寮長は応じた。
「寮長のステイシー・グローリーよ。ようこそ」
「ニコル・カロー。よろしく」
その後、簡単に世間話をした後、寮長は帰っていった。残された二人は部屋の中へ。
「変わんないねーここは。いや、二日だし当たり前か」
「……いつ帰ってたんですか?」
窓の方に体を向け、顔を伏せながらブランシュは尋ねる。
思い返しながらニヤリとニコルは笑う。
「『妹なんです、本当に』くらいかな。まさかあのブランシュちゃんが、あんな悪びれることもなく嘘を言うとはねぇ」
だったらもっと早く出てきてくださいよ、と言いかけてブランシュは言葉を飲み込む。言いたいことはこんなことじゃなくて。
「あなたのせいです。そもそも、その身分証とかどうしたんですか?」
国が発行する身分登録証。つい先日新しいものになったが、手にしているのはその最新式だった。いやな予感はする。
ニコルは悪い笑顔をブランシュに向ける。
「偽造に決まってんじゃん。これ作るのにちょっと手間取ってね。なんせちゃんと身分登録までしてきたから」
「それも偽造なんですよね。てことは、詳しく調べられない限りは、本当の姉妹になってるってことですか?」
冷蔵庫を開けながら、「そうだよー」とニコルは軽く肯定する。
「なかなか手が込んでるでしょ。ブランシュの両親とかにバレなきゃ、しばらくは安泰よ。てかさぁ、なんか食べるものない? 冷蔵庫なにもないんだけど」
それはあなたのせいです、と、ブランシュは言葉を飲み込む。
「……私はいいとは言ってないんですけど」
「もうなっちゃったから。許可とかないんだわ。てことでよろしく」
ニコルは被っていたベレー帽をブランシュの頭に乗っける。まとめていた髪がほどけて顕になる。ほのかに香るシャンプーと香水の香り。
「…… 姉妹になったんですね……」
本当は違うのに、ブランシュは言葉を飲み込んだ。
「……なんか感想は?」
ブランシュの顎をくいっと上げて、初めて二人の目が合う。悪戯な目をしているニコルと、感情を押し殺して見つめるブランシュ。外から聞こえる鳥の声が、静止した部屋によく響く。
「もうなにが起きても、あなたなら驚きません。どうせまだ隠してることあるんでしょうけど」
先に視線を外したら負け。そんなゲームを相手に言わずブランシュは始めた。もし勝てたら今日は上のベッドで寝よう。
「あるよ。そりゃそうでしょ。私のスリーサイズとか知りたいの?」
「いいです。興味ないです」
先にニコルが武装を解いて目線を外し、ブランシュの顎から手を離す。この二日間でなにかあったのか、変化を感じる。答えを見つけたか。とりあえずエスプレッソマシンでも起動させようと台所へ。
「てかさ、出ていくってあのおばちゃんに言ってたけど、本気だったの?」
マシンを起動させ、待っている間に気になった点を解決しておこうとニコルが問う。
ベッドの下から木箱を取り出しながら、「まさか」と、ブランシュは笑う。
「あぁ言えば、甘く見てくれると思ってたんです」
悪びれる様子もなく言い放つ。
悪い子になったなぁ、と他人事のようにニコルはエスプレッソの出来上がりを待った。
続きが気になった方は、もしよければ、ブックマークとコメントをしていただけると、作者は喜んで小躍りします(しない時もあります)。




