42話
「いきなりアルプスの少女みたいなこと言い出すから、なにかと思えば」
「……せっかく準備してくださったのに……すみません……」
場所が変わり、学園内のカフェスペース。食事処とは別に、同じ棟の三階にはカフェもある。見晴らしがよく、ガラス張りの広い窓からは、先ほどまでいたホールも眼下に見える。その他、遠くにはエッフェル塔も。
一時間ほどたっぷりと練習をして、お互いに弾ける曲と練度も測り終え、曲を選ぶ作業をするため、一度休憩となった。疲れた体に糖分の補給と、休息も必要と、何もしていないはずの人の提案でカフェへ。水曜日の夕方とはいえ、まだかなり人はいる。
「いいのよ、そういう時もあるわ。それ以外のバッハもブラームスも、完璧だったから、リサイタルの練習にはなってたし。それよりも気になったのは」
ヴィズは鋭い視線を、申し訳なさそうな顔をしているブランシュに向ける。
「香りを音にする。それってあなた達が前に言ってた『共感覚』じゃないの?」
パンケーキを口に運ぼうとしていたニコルの手が止まる。口を開けてあと数センチというところまで来ていたが、そこで停止。が、やっぱり食べる。食欲の方が大事。よく噛んで飲み込んでから、言葉を発する。
「言われてみれば。音を香りに、しか考えてなかったけど、よく考えたらそうだ」
「……そう、なんでしょうか。自分では考えたことなかったです」
音を立てずにブランシュはカップをソーサーに置く。中には紅茶が入っている。今は甘さが欲しくなくて、無糖のままだ。
「……『共感覚』なんてすごいものじゃなくて、ただ単に、イメージして弾くだけですから。はっきりと言葉にできるようなものでもないですし」
「でも、クララが消えたってことは、その感覚に近いんでしょ? はっきりと見えたんだから。いや、見えなかった、か」
自分にはない感覚なので、ニコルは予想でしか言えない。香りが音で。そんな世界はどういう風に生きればいいのだろう。ここ最近、そう考えることがある。
「たしかに『共感覚』は音楽でも話題になったことはあるわ。ロシアの作曲家、スクリャービンは音に色が見えたとも言うし、オリヴィエ・メシアンも和音に模様が見えたとも。それが有利になるのかはわからないけど」
ヴィズは飲み物はアップルティーを選んだ。爽やかな香りが疲れを癒す。「なるほど」とニコルは言っているが、たぶんわかっていないだろう。一口すすると、リンゴの香りが鼻をスッと抜けて落ち着く。
「香りから音、は作曲家というより、プロの調香師にひとりいるかどうかってレベルかね。その香りがハマればいい演奏ができるかもしれないけど、違ったら一気に崩れるか。ある意味、わかりやすくていいな」
なはは、とニコルは明るく笑う。ギャンブル性のある演奏、嫌いじゃないらしい。
『共感覚』自体がそもそもかなりのレアなものである。他人の痛みを共有してしまう共感覚などもあるが、人体については不明な点が数多く、簡単に言えば『よくわからない』らしい。
「あたしからしたら信じがたい話ね。例えば、この香りは? 寮の部屋で育ててる花なんだけど、持ってきた」
カバンからヴィズが取り出したのは、小さな組み立て式のクリアボックス。その中にはサボテンが入っており、頭には小さく花が咲いている。
クリアボックスを開けると、甘酸っぱい香りがほのかに漂う。
「これは……シュレセリー? と、クチナシのような、それでいて苦味のある柑橘系……」
少し味わい、カフェで実際に弾くわけにはいかないため、エアでブランシュはヴァイオリンを持つ。音が出ないぶん、軽く口ずさむ。この精油は持っていない。できれば作ってみたい。
断片でもヴィズは曲に気づく。弦楽六重奏。月下の男女の語らい。
「シェーンベルク『浄夜』。なんとも官能的な曲ね。この香りはそうなるの」
驚きつつも、納得、といった表情を浮かべる。できるなら、それを生で聴いてみたいけども。確信するのは、この子が本領を発揮するのは、香りを嗅いで自由に演奏する時だということ。
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