40話
リムスキーコルサコフ作曲『熊蜂の飛行』。二分もない短い曲ながら、腕試しの超絶技巧とも呼ばれるほどの密度をほこる曲。ピアノ・ヴァイオリンともに忙しく、その短さと見映え聴き映えがいいため、アンコールなどでよく演奏されるが、プロでもテンポは一七○程度であることがほとんどである。
超高速のピアノから始まり、そこにヴァイオリンが乗っかる。ひたすらヴァイオリンは体力勝負。体が一瞬で熱くなるのを感じる。速く弾ければ弾けるほど良い、というわけでもないが、一分で弾ききることを目標に練習を重ねている者もいる不思議な曲だ。左手が攣りそうになるながらも、ブランシュは弾ききり、じっとりと汗が噴き出る。
エンターテイメント性の強いこの曲だが、こちらも弾ききったヴィズは満足そうに頷く。ブラームスとは全く無関係な曲だが、気に入っている。
「うん、上々ね。ただ、ブランシュ。あなたラスト手加減したでしょ。もっと速くできたはず。こっちで完璧に合わせてみせるから、そのまま突っ切って」
実際、曲後半からはあとテンポをブランシュは一〇は上げられた。本来の実力なら一七〇でもギリギリだったはずなのだが、なぜか一八〇でもいけると判断したし、もっと速くできた。やはり、ピアノを本格的にやってきている人とは、相乗効果で引き上げられる気がした。
「……わかりました。次は最高速で弾きます。って、いや、今日はそうじゃなくてですね。この前言ってた『雨の歌』をもう一度、お願いします……すみません……」
「この前も言ったけど、ブランシュが作った香水が、本当に自分の『雨の歌』なのか確かめたいんだ。そのために協力してくれぃ」
ニコルは四本のアトマイザーを握りしめ、ヴィズに見せる。キン、っとガラスのぶつかる音が響く。
ヴィズも正直なところ、香りのためにヴァイオリンを奏でるなど半信半疑ではあるが、もしそんな人間がいるなら単純な好奇心から見てみたいと思っていた。快く快諾する。
「それは構わないわ。ただ、リサイタルの曲も一緒にやる。ギブアンドテイクね」
二ヶ月後にある教会リサイタル。その曲目は、ヴァイオリンが入ることで全て変更した。そのためにも練習が必要である。コンヴァトに行くつもりはないが、手を抜く理由もない。
「わかりました、ありがとうございます」
なんだかんだで、やはりピアノ専攻の人と繋がりがあるのは、ブランシュにも今回の香水作りに必要なことの気がしてきた。ヴァイオリンだけという曲は、そもそもが少ない。なにかしら他の楽器と組み合わさっていることが多い。そのためには、香水作りが目的ではあるが、こういう形で絆を深めるべきだと認識している。なにより弾いていて楽しい。
『雨の歌』第一楽章。トップノートの香りを首筋に塗り、香る。想像できる。アマルフィレモンとメープルの香りで、自然と指が動く。寄り添うようなヴィズのピアノは、やはり弾きやすい。
(甘くて、そしてほろ苦い。ブラームスとクララが見えます。でもなんでしょう……なにか、違和感のような……)
明るく、飛び跳ねるような、心躍るリズム。徐々に激しさを増し、絡み合うように二人でひとつとなる。愛というものの正面も側面も表現しているような、それでいて時折、微笑みかけるように甘く蕩ける。
その演奏を一番近くで聴いているヴィズは、内心がざわつく。
(……やはり、普通科の子の演奏じゃないわね。そもそもが熊蜂の飛行をあの速さで弾けている時点で、すでに音学院入学クラスなはず)
正直、ヴァイオリン専攻の子達とも演奏することがあるが、ブランシュのそれは遥かに凌駕しているようにすら思える。日曜日に少し演奏したときよりも、感情的で、波の振れ幅が大きい。優しく激しく甘く悲しく。いつまでも聴いていたいとすら思える。
しかし、当のブランシュは、なにか引っ掛かりを感じていた。
(シューマンの死後、七人の子供を支え続け、本当の父親のように、そして旦那であるかのようにクララを愛し続けるブラームス。この時が永遠に続くかのような激しさの中、その思いを閉じ込めようともがくブラームス…… トップはこれで合っている、気がします、気がするのに……)
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