368話
(もういいの? 別れは済ませた? 別にそんな急がなくてもいいのに。普通に通ってもらって)
一二区。ヴァンセンヌの森にて。少女は再度、佇みながら考える。あの人の声が頭の中に聞こえる。手にはなにも持たず、濡れた髪が肌に纏わりつく。目の前には湖。芝生と木々に囲まれたその水面に、淑やかな雨が降り注ぐ。
「……いえ、元々、出会うはずのない人達でしたから。別れとか。『それも人生』です」
それは自分との会話、なのかもしれない。自分の中のギャスパー・タルマの声。実際に会ったことは、ない。物心ついた時にはもう、いなくて。でもその存在は知っていて。お婆様から聞かされていたから。いつか会える、会いに行くと決めていた。向こうからは会いに来てくれないから。
でもそれでいい、と思っていた。調香師として、目指すべき人物であってほしいから。
(でも驚いたよ。私を追いかけてイタリアとか行っちゃう気だったんでしょ? そんなことしなくても、そういう枠くらいは増やせるよ)
「結構です。もしそこに滑り込めなかった場合は諦めるつもりでしたから。あなたとは違う道で調香師を目指していました」
チャンスはあったし、会おうと思えば会えたんだと思う。でもそうしなかった。会いたいような。会いたくないような。わからないから、運に任せた。結局、ダメだったけど。
(そっか。でもキミのほうから連絡をくれたってことは。覚悟はできた、ってことだね)
「……はい」
覚悟。どれのことだろうか。だけど、全て捧げると決めたから。そのために捨てなければ、手放さなければいけないものがあることは知っていた。私の、そして彼の想像する、創造する香水は。その感情も包み込まねばならないから。




