358話
モンフェルナ学園音楽科小ホール。カワイのグランドピアノ。主要な国際コンクールでも使用される、その柔らかくダイレクトに奏者の感情を伝える音質が、優しく室内を包む。
「……」
弾かれた曲。ショパン『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』。ポーランド、オーストリア、イギリス、パリ。様々な国を渡り歩いた彼の喜怒哀楽。亡くなる二〇年も前に作られたとは思えないほど、芳醇な香りが添えられている。
ピアノ教師として、そして作曲家としての収入が増えていくにつれて、ピアニストとしての活動が減っていった。自身の生きる道を見つけた。そう、なにもかも手に入れようなんて。ショパンでもできない。
「いい曲だね。で。なーんでこんなとこにいるのかな?」
最前列でその演奏を、イスに座って聴いていたのは。ニコル・カロー。呼ばれて今。ここにいる。
そして。
「……」
演奏者はブランシュ・カロー。鍵盤蓋を閉め、演奏を終える。ヴァイオリンではなく、ピアノ。
だが、ニコルにとって問題なのは、楽器ではなく今ここにいること。ここで。なにをしている?
「今日、ていうか、今。今。まさに今。やってんじゃないの、教会でさ。ブリジットが」
サントメシエ教会にて、ピアノリサイタルが行われている。そして、アンコールで一緒にやらせてもらえることにもなっている。ということは、ここにいる場合ではない。たしか一時間ちょっとと言っていた。なら、もうすぐ出番。
同じパリ市内とはいえ、すぐに行ける距離ではない。少なく見積もっても数十分。もう、間に合わない。それ以上に。
「……」
ブランシュからは向かおうという意思が感じられない。




