340話
そこにさらにブリジットは追加していく。
「あ、あと——」
「まだなにかあんの? 勘弁してよもー」
全てに応える自信はサロメにはある。だがやりたいかどうかは別。あまりいじらない、も調律。結果。結果さえよければなんでもいい。
そこに二人ぶんのコーヒーをマグカップに注いだここの社長、ルノーがドア向こうの簡易キッチンから。
「そう言いなさんな。ピアニストとの信頼関係。これ一番大事。ミケランジェリと村上輝久くらいの関係が理想」
小さくコトッ、とテーブルに置く。どちらもミルク砂糖多め。味はそこまで保証しない。だってバリスタじゃないし。ここ、ピアノ専門店だし。
二〇世紀を代表する名ピアニスト、そして名調律師。調律師をやっていて、その二人を知らない人物はモグリ。ミケランジェリは「村上が調律しないなら演奏しない」とキャンセルすることも多かったドタキャン界の王でもある。
ちびっとコーヒーを口に含み、もう少し甘めがよかったんだけどなー、と淹れてもらいながらも不満を持ちつつ、サロメは呆れ顔になる。
「どーも。で、余計に嫌よ。なんであたしが同伴しなきゃなんないのよ。暇そうなラン……アレクシスとかいうオッサンに頼めば? あの人ならダイジョーブでしょ」
口を突いた名前をギリギリで変更。あいつは……今はいいや。最近このアトリエに足を踏み入れた調律師の名前を口にする。
「? ……あ、ありがとうございます」
ブリジットには初めて聞く人物。だがサロメが認めている、というのは少し気になる。誰に対しても傲岸不遜の彼女が。
しかし呆れたようにルノーは否定。
「彼はウチの調律師じゃないでしょ。勝手に数に加えないの」
どうやら勝手に外部の調律師を、このアトリエの人間として働かせようとしていた模様。らしい、といえばらしいか。ほんの少しブリジットは気が楽になる。変わらない人物、というのは落ち着く。ところで。
「……ねぇ、この香りからサロメはどんな曲が想像できる?」
右手の甲を差し出す。ここに塗布された香り。だいぶ薄まってしまったが、自分には。わからない。見えてこない。聴こえてこない。




