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Parfumésie 【パルフュメジー】  作者: じゅん
歩くような速さで。
34/369

34話

「カードキーないから、開けてくれればいいだけ。迷惑はかけないって。連絡するから」


 そう言い放ち、ニコルは玄関に向かう。カバンは持っていない。いつも手ぶらだ。ポケットからは少しの小銭の音。一〇本の小瓶はテーブルの上に置いてある。


「もう迷惑かかってます。私のご飯とお菓子がなくなってます。それにいつもは片づけてあるテーブルも出しっぱなしになりました」


「あいたたたたた。とりあえず出てくる」


 勢いよくドアを開け、ニコルは飛び出して行った。目的があるのか、早足で消える。


 勝手に閉まるドア。閉まるとロック音がする。そのドアを五秒ほど見つめてブランシュはそっと囁いた。


「……もう知りません。捕まっても私の名前は出さないでください」


 部屋に戻ると、もう一度イスに座り、天井を見つめる。寮長に秘密にしている時点で、自分も少し悪い子になってしまった。乳白色の蛍光灯が眩しい。目を瞑り、先ほどの香りを思い出す。


「誰かの身につけた香水を嗅いだのなんて、久しぶりです……」


 そんな近い距離に身を置く人がいなかった。アンバーとエバニール、確か箱のどこかに、と記憶をめぐる。と、そこで思考は停止。それよりも『雨の歌』をなんとかせねば。だが、なんとなく自分の中から覇気を感じず、イスにもたれかかりそのままの体勢で思考する。ニコルの自堕落っぷりに少し当てられているかもしれない。


「第二楽章は……病床に伏せた、シューマンの息子フェリクスの、在りし日を懐かしむ叙情的な曲……」


 脳内でヴァイオリン演奏をしてみる。ブラームスの感情が流れ込んでくるような、そんな印象を受ける曲だ。


「激しさと悲しさ、ノスタルジーさえ感じるならば……」


 ぼんやりとだが、イメージは掴めた。派手な技巧などはないが、深く深く染み渡る。脳内の一音一音が、血液に乗り全身に行き渡る。目を開けると、ベッドの下の木箱をいくつか出し、その中から四本引き抜く。


「スターアニス、ローズウッド、スティラックス、フェヌグリーク……」


 そして想像する。一番大事な作業だ。四つの香りが混じり合い、溶け合い、ひとつとなる。スターアニスの苦味、ローズウッドの甘く優しい香り、スティラックスの爽やかさ、フェヌグリークの焦がしたような香ばしさ。


「そして最後、第三楽章は、雨の中の寂しげなト短調……そして変ホ長調となると、終楽章のホルンの響き渡る音色は、クララへのラブレター。この作品の二年前に書かれた交響曲と、同じパッセージ」


 クララへ贈った歌曲『雨の歌』の旋律から始まる。激しくも悲しい、本来の歌曲を知っているとなお、同じ旋律のはずなのに、より深くブラームスの心の葛藤が見えてくるように思えた。


「ブラームスは……やはり、クララを諦めきれなかった……」


 そうなのかもしれない。史料となるものが全てではない。感じたものが、その人にとっての『雨の歌』。


『だから最初に言ったでしょ。ブラームスはクララを諦めていないって』


 そんな声が聞こえる。気がする。


 他に誰もいない、静かな部屋。数分前まで暴れていた人がいないだけで、よりその静けさが際立ち、口が滑る。


「……私にもし妹がいたら、あんな風に言い合える仲だったのでしょうか」


 イスから立ち上がる。そんなもしもはない、と知りながら、彼女の香りに包まれたベッドで眠りについた。

続きが気になった方は、もしよければ、ブックマークとコメントをしていただけると、作者は喜んで小躍りします(しない時もあります)。

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