327話
彼女は一度、ピアノを辞めている。そのため昨日の自分を捨てる覚悟と強さを持っている。ピアノは楽しい音楽の時間。その瞬間の自分なりの音を届けるだけ。聴衆がどうとか、そういったものはこちらでコントロールできないのだから。できることだけできるように。百二〇パーセントはいらない。百でいい。
そしてこちらも常に平常心。練習でも本番でもカルメンは自由にやるだけ。弾いている時の自分は。ベートーヴェンだろうがモーツァルトだろうがショパンだろうが。その彼らの功績を美味しくいただく。
「私も。準備できてないのはイリナだけ」
「あ? あたしも問題ないっての。そうじゃなくてヴィズとブリジットだよ」
なぜか下に見られていることに、ついにイリナの言葉が汚れてきたが、話の本質はそこではない。ここにいない二人。ヴィジニー・ダルヴィー。ブリジット・オドレイ。
いつも仲の良い五人。隠し事なんかも全然ないんじゃないか、というくらいに。だからこそベルは首を傾げる。
「? 二人ともなにかあったっけ? ヴィズはバッハとブラームスだし、ブリジットはもちろんショパン。いつも通りって感じだけど」
作曲家を好きに選んでいい、とのことなので得意な人物を選んだ。特に突飛でもない。ヴィズは色々な作曲家を満遍なく高水準で弾ける安定感があるし、一点特化型のブリジットは言わずもがな。それ以外ももちろん弾けるけど。
ノエル、ということで厳かであったり明るかったり。雪とか子供とか。そういったテーマはカルメンは好き。
「ヴィズはブランシュと一緒に演奏、だったはず。私は全日聴きにいくけど。二人はどうする?」
特別やることもないし。だったらみんなの晴れ舞台を目に焼き付けたい。必要とあらば代わりに弾いても。




