310話
ではなぜ過去の人物の名前を使い分けていたのか。ヴァヴィロフの生きた旧ソ連の時代は、表現の自由について抑制や弾圧があり、他人名義にせざるをえなかった、という説もある。真偽は不明。ちなみにこの曲はルネサンスやバロックとは違う作曲技法で書かれているため、なぜアーティストがカッチーニ作と認識したのかも不明である。
曲自体はとてもシンプル。最初から最後まで歌詞は「アヴェ・マリア」しかない。コードも八小節を二回、何度も繰り返す。つまり一六小節弾いて歌うだけ。だが、他の『アヴェ・マリア』を差し置いて三大に選ばれるほど、美しくも切なさを感じる曲。
まず、マノンのジャズドラムから。基本に忠実にライドシンバルを叩きつつ他もそれっぽく。
「ほいほいっと」
これしかできない。あとは任せた。
「無理してやんなくてもいいんだがね」
ま、ないよりはいいか。そこにクロティルドのピアノが入る。スウィングジャズ。ジャズは『ズレ』を楽しむ。楽譜に書いていない弾き方をする。リズムは揺れ、クラシックとは違う裏拍のアクセント。自然と弾いている側もそれに連動して体が揺れる。
いわゆる『ハネる』リズム。ジャズの醍醐味。だがどちらがいい、というわけでもない。ジャズにはジャズの。クラシックにはクラシックの良さがある。ブランシュが目指すもの。その境目。より曖昧に。より接近する。弓が。軽い。
ヴァイオリンはクラシックでは基本的には単旋律を弾く。ピアノのように左手でハーモニー、右手でメロディ、というようなことはない。だがジャズという環境においては、周りとの調和。前に出過ぎず、自分の音とハーモニーのバランスが大事になってくる。
そしてジャズはベースやドラムによる、はっきりとしたビート。これがクラシックとの大きな違いでもある。このリズムを意識し、あえてズラす。あえてタイトに。あえてゆったりと。遊ぶ。
(全ては『音楽』から分かたれた道。元を辿れば同じ場所に行き着く。ジャズだから。クラシックだから。そうじゃない。自分のいいと思った音楽を——)
弾きながら調整する。もう少しハネたほうが自分は好きか。心地いいか。フィドルと同じく音を『切る』。クラシックのように音を『繋ぐ』。どう奏でたいか、よりもどう『伝えたいか』。心の迷いを音にする。




