299話
「これは……」
なんだっけ。名前は聞いたことあるが、ギャスパーも初めて見た。たしかノルウェーの民族楽器。
ふひひ、とオーロールはゆったり構える。
「ハーディングフェーレ。ハルダンゲルフィドル、って言ったほうがいいのかな。便利なんだよねー、お金がなくなったらこれで稼げる。観光客もそれなりにいるからね。そんじゃ」
弾くよ。ぐだぐだ喋っててもしょーがないし。猫は気分屋だから、どこかに行っちゃうかもだし。やれやれ。
ハーディングフェーレ。扱いはヴァイオリンと同じだが、普通に弾くと調弦が高くなる。楽譜に書いてある通りに弾いたとしても、聴こえてくる音が違ってくるため、少々慣れが必要。踊るための音楽を奏でる、踊りとセットの楽器と言っていい。
この楽器は楽譜というものがない。語り継がれていくのみ。哀愁のある独特な音色は、全て耳頼りで師から弟子へと伝わっていく。一七世紀の半ばには存在していることは確実なのだが、それ以前のいつ頃からか、ということはわかっていない。
ノルウェーのハルダンゲル地方で生まれた民族楽器。神聖なものとされ、冠婚葬祭などで使用される。そして作り手はもうほとんどいない、いても一年で二丁程度しか作り出せないほどに幻の楽器。作曲家のグリーグも、この音色に魅了され多くの曲を残したとされる。
そして今。風がオーロールによって生みだされる。柔らかで。清く。淡い風。その風に誘われたのか、どこからともなく大小様々な猫が集まってくる。
(さすが。まるで天国にでもいるかのような、穏やかで心地いい音楽。いや、行ったことはないけど)
その音色にギャスパーは心酔する。ショパンのサロンのような高額チケット代も払わず。これを無料で。
それは石に染み込むように。鳥を震わせるように。花に彩りを加えるように。優しく響き、風として消える。この村の香り。それをオーロールは音に変換する。
少年の頬が紅潮する。呼吸が、吐息が熱い。美しい旋律。ただただ単純に、曲など知らないけれど。やはり。自分にとってオーロールの奏でる音は。特別。
「ま、こんなもんかね」
軽めに余韻を残しつつ、さっさとオーロールは曲を締める。長々とやるもんじゃない。何事も無駄なくソツなく。できた時間はダラダラ過ごす。猫達もどこかに散っていく。少年も。猫を追って。




