291話
なんだか光明が見えてきた感じ? よくわからないけど。よくわからないことは聞かない。マノンにできることは、自分の振る舞いたいように振る舞うだけ。
「やる気出た? ほらほら、なんかやってみなって」
そして自身のヴァイオリンを押し付ける形で貸与。それなりに値段のするものだけれど。こうやって楽しむためなら全然オッケー。
無感情のまま受け取ったブランシュ。今までであればそれでもつき返していた。できない、と。いや、その気持ちは変わらないし間違っていないと思うけれども。なんだか今は。流されてみたい気分。ヴァイオリンを見つめる。
「……」
そして構えをとる。まるで水の流れのようにゆったりと。それでいて淀みなく。いつも演奏しているヴァイオリンではない。だから。ミスしたりしても。自分に言い訳できる。そして。今はただ。
早く。弾いてみたい。なにも考えない。頭を空っぽにして。
空気が変わる。それを感じ取ったマノンは一歩下がった。
「……あれ? ん? お?」
まず、ヴァイオリンを弾いたことがない人は、どうやって構えていいのかわからない。見様見真似しようにも顎の位置や体の軸。ブレるはず。なのに。この少女はとても美しい。やっていた? でもひと言もそんなことは言われていない。
それでもブランシュは、今からでもやっぱりやめようか、という気持ちがないわけではない。弾きたい自分と、やめたい自分。それらは表裏一体。
(私が奏でるのは『音楽』? それとも『香水』? その境目。溶けていくように——)
心に一滴だけ。雫が落ちる。波紋が広がる。鼓動が。体を動かす。勝手に、動く。
アレグレット・モデラート。ほどよい速さで。その曲は、かの作曲家ロッシーニが「シャンゼリゼのモーツァルト」とまで呼んだ人物の作品。
柔らかに始まるバルカローレ。漂うように。ゆらめくように。包み込むように。世界と自分がひとつになる。太陽と。ひとつになる。失ったからこそ得ることができるもの。
「……オッフェンバック『ホフマンの舟歌』……」
神と悪魔の歌声。それをヴァイオリンのみで。始まった瞬間からマノンの心はイタリアのヴェネツィアへ飛んだ。ゴンドラで水上の船旅。サン・マルコ広場、モーツァルトの家。波音と共に直接脳に叩き込まれる。




