29話
「いいのよ、あたし、コンヴァト目指してないし」
音楽科に入ったとしても、目的は様々だ。プロを目指している者ももちろんいるが、故郷で音楽教室を開く者や、学校の音楽教師を目指す者もいる。ただひたすらにピアノに向き合いたいだけの者も。
「……それでバッハに切り替えたんですか……?」
怯えたような顔のブランシュの指摘に、ヴィズは一瞬驚いたような顔になったが、すぐに笑顔を見せる。
「正解。よく気づいたわね」
「どういうこと? バッハとリサイタルとどんな関係が?」
割り込んできたのはニコル。自分を置いて音楽的な会話がされている。混ぜて欲しい。
諦めが漂うブランシュが解説する。なんとなく、ヴィズさんも決めたことは梃子でも動かなそうだ、と覚悟を決めた。
「先ほどの曲はバッハの『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』というのですが、これは教会ソナタという一七世紀の教会でよく弾かれた形式なんです」
ふむふむ、と簡潔な答えで頭にスッと入ってきたことで、言いたいことはニコルにも理解できた。願ったり叶ったりだ。
「てことは、今度のリサイタルでその教会ソナタを一緒にやろうと誘われているわけね。いーじゃん、やりなよ」
焦りの表情でブランシュはニコルに詰め寄る。嬉しい気持ちもあるが、そもそも私達はなんにためにここに来たのか。天秤にかけた時、たぶんニコルは面白い方を選ぶのだろう。
「私達の目的は調香ですよ! ミイラ取りがミイラに……とは少し違いますけど、それのために練習しなきゃですし、そうすると一○個も香水を作る時間取れませんよ!」
たしかに、とニコルは深く首を縦に振った。
「なるほどなるほど、そいつは困った。が、よし! 本人もやる気だ! よろしく頼む!」
「決まりね」
悪い奴らがタッグを組んでしまった。
「え、ちょ、え、ニコルさん!? ヴィズさんも!?」
二人を交互に見やりながら、必死にブランシュは抵抗する。自分の意思とは別に物事が進む。今日一日こんなことばかりだ、と頭の中を駆け巡った。
戸惑うニコルにブランシュの耳元でそっと囁く。
「まだ残りたくさんあんのよ? 音楽科とパイプ作っといた方が、後々便利じゃない。お互いに利用し合いましょう」
言われて気づく。たしかにそれができれば助かるだろう、ヴィズ本人もリサイタルでの共演を条件に、色々と手伝ってくれそうではある。短い時間のやり取りではあるが、そういう性格な気がする。リサイタルが失敗しても、誘ってきた彼女に非があるわけで、ブランシュのことは責めないだろう。
「それは……そうですけど……いや、まず私の腕前はそんなに……」
「それは大丈夫。あたしが保証する。好きなように弾いてもらえれば、こっちで合わせるわ」
自信満々にヴィズは言い放つ。
「いえ、そういう問題では……」
「はい、解決! 解散解さーん!これからよろしく!」
満足したのか、ニコルはひとり先にホールから出て行く。ゲートはどうやって抜ける気だろうか。気づいたのか、扉の前で待っている。またピッタリくっついて出ていこう。
急いでブランシュは後を追いかける。ホールの階段を登りながら、人生で一番疲れた日だ、と息を吐いた。
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