285話
「なにも……思い浮かばない……」
いや、思い浮かばないというのも烏滸がましい。そんなすぐに思いついたら調香師は毎日毎日香りが浮かんでいる。だけど、ただ悩んで行動しないのも違う気がする。そんな葛藤を抱えたまま。ブランシュはただ。歩く。
モンフェルナ学園、音楽科ホール内。コンクリート打ちっぱなしの壁には、ところどころ張り紙。もちろん練習室の予約などしていない。だからアテもなく彷徨うだけ。誰かに助けを求めているのだろうか。それとも結果の決まっている道を歩いているだけなのだろうか。それも。なにも。わからない。
わからない? わからないというのは、わかることが前提にあるから存在しているのであって。答えがあることが前提なのであって。そんなものがあるのかどうかすら。わからない。
すると。
「……ここは」
ふと、顔を上げたブランシュの目に飛び込んできたもの。グランドピアノが一台、客席数が百ほどのリサイタルや室内楽用のホール。客席、とは言っても背もたれのあるイスが置かれているだけで、非常に簡素なものではあるが、中世のサロンをイメージしたものであり、客席と演奏者距離が近い。気づいたら。ここにいた。
モンフェルナ学園には、客席数が千を超える大ホール、四百ほどの中ホール、そしてクラシカルなこの小ホールなど以外にも、オーケストラや合唱、吹奏楽など用途に応じた様々な種類のホールが存在する。吸音の素材も完備し、本番に合わせた響きに調整することを可能としている。
そして現在。ブランシュがいる小ホール。元々、ピアノというものは大ホールのような場所で弾くことを前提としていなかった。モダンピアノで多くの弦が張ってあるのも、音を大きくするためであることからもわかるように、それ以前の一九世紀ではむしろこちらのほうが主流であったほど。
特にショパンは。あまり人付き合いが得意でなかったこともあり、リサイタルなども実は少なく、サロンでの演奏を好んだ。サロンとは『部屋』を意味し、主が芸術家や学者などを招き、知的な会話を楽しんだことが始まりとされている。パトロンと知り合うのも基本こういった場でもあったため、出会いの場として顔を売っていた。




