265話
「ブリジット・オドレイは……いわゆるショパニスト。私達の中には彼女ほど、ひとりの作曲家を追い求めている人物はいないわ」
そこだけはもう、一歩どころか二歩も三歩もヴィズは譲る。なんだったらその歩んでいる道に、後ろから花を撒いてもいい。
作曲家には、細かな作曲の癖がある。例えば非常に細かい指示がある作曲家もいれば、速さと難しさを追い求めた曲を作ったりする作曲家もいたりと、それを弾くピアニストに得意不得意が出てくる。なので全てに対応できるピアニストなどいない。アルゲリッチでもポリーニでも。
だが、何百人という作曲家がいれば、ひとりくらいは自分の感性に合う作曲家がいる、というのもまた事実。グレン・グールドにとってのバッハのように。ギー・リビングストンにとってのジョージ・アンタイルのように。もちろん、その他の作曲家の曲を弾くこともあるが、生涯追い求める者もいる。
そうした中、ブリジット・オドレイという少女は。自他共に認めるショパニスト。ショパンの研究と練習に相当な比重を置き、様々なピアニストのショパンを聴く。それこそが至福の時、とまで。
そんな彼女の生態を知っているから。横取りなど考えることもない。
「イリナとかカルメンも文句なし?」
五人の中でも非常に協力的かつ、賑やかな二人をニコルは挙げる。それぞれ、音に正反対の特徴を持つようで、ブランシュも認めていた。ならば相当に香水の幅は取れるはず。ありがたやありがたや。
その状況をヴィズも想定してみるのだが。結果は変わらない。
「文句は言うわね。諦めの色が濃いでしょうけど」
でもこっそり練習はしそう。そして競っていそう。切磋琢磨はよろしいこと。
相手の『雨の歌』『死の舞踏』を奪ってまで弾こうとするほど好戦的なのに。それはニコルにとっても初めてのケースかもしれない。
「そこまで。あの二人って全部やろうとするじゃん? はー、そんなこともあるんだねぇ」
そろそろ前に進まない話に、ヴィズもムッとしてくる。
「それで。なんの曲? マズルカ。ロンド。エチュード。ワルツ。なんでもありすぎて絞り込めないわね」
ショパンはそれぞれ代表する曲が多い。多すぎる。有名な『革命』はエチュードだし『子犬のワルツ』はその名の通りワルツ。音楽をやっていてもいなくても、一度は聴いたことある名曲ばかり。それはショパンに限った話ではないけども。
そうだそうだ、と手を叩くニコル。ゴソゴソとコートのポケットから一枚の小さな紙を取り出す。
「いやー、これなんだけど。『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』」
そして読む。うん、わからん。エスプレッシオーネってなんかコーヒーみたい。食後に合うゆったり感ありそう。




