261話
甘く。優しく。穏やかな風が吹き抜ける。広大な土地と、香り高い花が揺れる。そこは閉ざされたホール内だというのに。それぞれの愛する者の笑顔も浮かび上がってくるかのような。そんな。切ない曲。
「珍しいわね、あなたから誘ってくるなんて」
五分弱のピアノ演奏を終えたヴィジニー・ダルヴィー、親しい友人達からはヴィズと呼ばれる少女が楽譜を閉じた。ほぼ無音のその閉じた音すら、まるでこの作品の一部であるかのように。どこまでも。胸を打つ。
名残惜しそうに、傍の少女もヴァイオリンを下ろした。瞼の裏側に映る景色。淡い紫色の花がどこまでも続いていて。花の都、と呼ばれるここパリには。ここには、ない。
「……ありがとうございます。この曲は……ヴァイオリンだけでは完成……しないものですから」
ゆっくりと深呼吸。首元にはラベンダーの香油。心を整えるトップノート。それこそ、香りとしては一番有名かもしれない。香水以外にティーにもアロマにも。その他様々な使用法がある。
少女の名前はブランシュ・カロー。香りを音に変換する力を持つ。もちろん感覚的なものなので、言葉にするのは難しい。そして、同じ香りでもその時の精神状態などでも繊細に感じ方が変わる。そのため、同じ曲を同じように演奏、はできない。できなくていい、と本人談。
このモンフェルナ学園の音楽科の大ホールには現在、彼女達しかいない。腕のいい調律師によって調律の施されたハンブルクスタインウェイのピアノ。計算し尽くされた残響。そこらの音楽院よりも遥かに設備が整っている。
もっと余韻を味わっていたいヴィズだったが、どちらかが動き出さないと永遠にこのまま、というほどの静けさに支配され始めたため、思い切って口を開く。
「初めて弾いたのだけれど、あんな感じでよかったかしら。映画も観たことないものだから、楽譜からしか読むことができなくて」
難しい曲ではなかったからこそ初見で弾けたが、ただ渡された譜面の通りに弾いただけ。ミスタッチなどもなかったとはいえ。
イギリスの作曲家、ナイジェル・ヘスの『ラヴェンダーの咲く庭で』。同名の映画で使用されたこの曲は、ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジー。記憶を失ったポーランド人ヴァイオリニストのアンドレアと、彼を世話する老姉妹を中心とした二〇〇四年の作品。それをピアノ伴奏で。
イングランドのコーンウォールの小さな漁村を舞台に、変わりゆく心模様と変わらない自然美を描いた、叶わぬ恋の話。言葉も通じない、年齢も離れている、それでもただひたすらに貫く愛。温かい涙が頬を伝う。




