258話
終わった。なにもかも。ハッピーエンドなのか。ノーマルエンドなのか。それともバッドエンドなのかニコルには区別がつかない。だが、ひと時の休息になる。のかな。
「……ヴィズとか、他のみんなには」
完成はひとつの結末。あとはその練習の成果をどこかで発表するのだろう。
視線をピアノへ移すシシー。グロトリアンとは違う輝きを持った最高の音。
「来られる人にはここを使わせてもらって、俺が弾き語らせてもらうよ。教えてもらったことを見せなきゃね」
いられたのは一週間だけ。まるでシンデレラの魔法のようにベルリンの彼女達は消えていく。
そうなるとその時の演奏はひとりで全てやるのであろうことは、ニコルにも予想できる。となると。
「じゃあ、今朝の演奏は——」
「秘密だ。『誰が』ピアノを弾いていたか、というのは本人が隠したがっているみたいだし。可愛いね、そういうところも」
ふふ、と思い出し笑いをするシシー。自分が弾くよりもやはり素晴らしい、素敵な恋心だった。そもそもひとりでやるものでもないのだが。
「……なんで」
全てが。全てがニコルには腑に落ちない。
再度視線が合う。強気で妖艶なシシーの瞳。きらり、と花のアクセサリーがついた髪紐リボンが揺れる。
「あの子にはグロトリアンも、さらにはストラディバリウスも本来は必要ないんだ。理由はわからない。言っただろう? 誰しも嘘のひとつやふたつはある。なら隠しておきたいことも同様だ。キミにだって」
それとは逆に弱気で儚げなニコルの目力。揺れる。
「……そういうそっちも?」
なんだろう。赤信号を渡ったとか、そんなん?
ひっそりと耳打ちするシシー。息がかかるほどに。
「あるね。俺がいつ、誰と寝たかなんて秘密だ」
昨夜、いや、日付変わって今日の朝かな?
「! あんたまさか——」
「なんてね。残念ながらキミの予想はハズレだ。彼女は心を落ち着かせる紅茶を飲んで、そのまま俺のベッドで寝てしまった。アニエルカさんの見立ては絶対だからね。よほど心地がよかったんだろう」
激昂するニコルを宥めるシシー。「すまないね」と、まるで子供をあやすように頭を撫でた。
……勝てない。この人物には。大きく体を使って息を吐いたまま、前傾姿勢になるニコル。
「……信じるからね」
あの子になにかあったら。私は。ワタシは。
凄まじい速度で構築されるシシーの推理。そして導き出した答え。
「まるでニコルさんは、あの子のなにもかもを知っているようだね。いや、逆かな。あの子のことをなにも『知らない』んだ。誰かキミ達に香水を作るように言われているね。それも予想はできるけど」
ギャスパー・タルマ。あの人にはこう言ってあげたい。「ほら、あなたのお孫さんは俺を頼ってきただろう?」と。
全ては終わりに向かって進んでいるのは確実。となると、今は懸念しなければならないことがニコルにはある。
「あの子は今どこにいる?」
まさかとは思うけども。このままいなくなる、なんてことが脳裏によぎる。しかし。
「安心していいよ。他の人にも香水を頼まれているらしくてね。作っている最中のようだ。少し元気は出てきているね。どこかに消えるということはないだろう」
相手の脳内を読むシシー。先まで見通すことは大事であるし得意。
「……それならいいけど」
ひとまず安心しつつも、疲労が増すニコルは、床にそのまま溶けていきそうなほどに肩を落としてもう一度ため息。
「ま、今日明日はある程度時間があるからね。のんびりと旅行でも楽しんでくるよ」
危険で。刺激的なパリ。シシーは予想のつかないことが起きてくれ、と願う。
「……」
言葉を返さずにそのまま佇むニコル。そして数秒の間を置いて顔を上げる。結局、自分の悩みは解決できたのか。わからないが、すでにシシー・リーフェンシュタールという人間は、最初からいなかったかのように音もなく消えていた。
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