257話
翌日。授業のない土曜日ということもあり、学園内はいつものような賑わいもなく、ホールも練習を望む生徒がポツポツと予約を入れるのみ。
誰もいない客席。一番前に座ったニコル。強い眼差しを向けるその先には、舞台の上のスタインウェイ。最高の音質と反響。
「……」
もうすでに物事は終わった。隠れて聴いていたドイツリート。教えてくれたシシーにはバレていただろう。天井を見上げる。
「……広いなー」
何人くらい入るんだろうこのホールは。クラシックに基本興味はない。だが、一ヶ月以上関わってみると、深さのようなものは感じた。ただ弾く、ただ歌うのではないのだなと。一音一音に意味があったのか。
「……ブランシュ……あんたやっぱり——」
「ここいいかな? ニコルさん」
突然、隣の席に腰掛ける人物。シシー・リーフェンシュタール。
「うわッ!」
飛び跳ねるように立ち上がるニコル。なにも感じ取れなかった。ニンジャ、そう、ニンジャでもあったのか? 分身とかできる?
目をまん丸にしてシシーものけぞる。まさかこんなに面白い反応とは。口角が上がる。
「驚かせてすまないね。一応声はかけたつもりだったが、なにかに集中していたみたいで」
たしかに色々考え込んでいたのはニコルにとって事実。なんだか気を使わせてしまったような気もする。
「あー……いや、こっちこそごめん。で、どうなったの?」
どうなった、というのはあの子と香水。もう時間はない。
うーん、と一瞬考え込むように天を見つめたシシー。が、それは彼女なりの茶目っ気。ポケットから透明なアトマイザーを取り出す。中には少量の液体。
「完成したようだ。トップにフリージアとダバナ、ミドルにアンジェリカルートとティアレフラワーとガーデニア、ラストにガイアックウッドとアンバーグリス。これが『詩人の恋』」
そして手渡す。これにて自分の役割は終了。あとはキミ達次第。
シューマンの恋。いや、詩人か。ともかくそれが時を超えてニコルの目の前に。
「これが……」
今までの三つとはなんとなく違う。より苦しみ抜いた香水。握る手のひらに汗と力。
「春の花フリージアや、聖母マリアを思わせるアンジェリカルート、そして祈りのガイアックウッド。恋をして、失い、深い海へとその想いを捧げる。素敵だね」
詩になぞらえて、簡潔に説明するシシー。時間が経つにつれて、切なさが駆け抜ける。アンバーグリスはマッコウクジラの内部に生じる結石で『灰色の琥珀』の異名を持つ。想いを全て棺に込め、海の深くへと葬り去る。水深千メートルまで潜るクジラのように。




