251話
第一曲『素晴らしく美しい五月に』。緩やかに揺蕩うピアノの演奏と共に、五小節目から歌唱に入る。ただのゆったりとしたピアノ、とはならない。インテンポからの細かいリタルダンド。小さく波を作り揺れ始める。セカンドペダルで音に柔らかさをプラスし、ぼやけた輪郭を生み出している。
(やはり……もうここの演奏だけで上手いことがわかります。官能的で。甘く、苦く、悶えるような音)
実に細かな違い。だが、同じ一音など存在しないことをブランシュは理解している。不安定感が安定している。とてつもない技術。自分の心を表現する力。
そして歌唱部。まず最初に美しい春の訪れを告げる、強く明瞭な発音。まるで本当に花が開いたかのように、パッと明るさが増す。そしてひとつひとつの単語も、ただ歌うのではなく横隔膜や唇、舌の使い方で表現が全く違うものになる。激しさと共にテンポが若干速くなる。
それと同時にピアノにも変化を。昂った気持ちを示すフォルテから、軽く優しいアルペジオ。今は振り幅を小さく。まるで眠っている時の脳波のように。声帯は収縮と伸展ををしながらジラーレ、回すように響かせる。この歌曲において最も難しいとされるポイントを、余韻を持って終わらせる。
歌曲は一曲一曲は短い。一瞬でシン、と静まり返る。いや、元々音はほとんどなかった。だがより、さらに。
「……あ」
拍手しようとしたところでギリギリ、ニコルは寸止め。まだ一曲目。あと一五ある。だが、そうアクションを起こしてしまうほど、デパートの吹き抜けに反響した歌声は、全く別のフロアにいる人々にも届く。少しずつ、帰る予定にあった者達の足を止める。
「なんだなんだ?」
そんな疑問の声も聞こえる。閉店後のデパートでなにが起きている?
「ふふっ」
なんだか見せ物にされているようで、自然と笑いが溢れるシシー。注目を集めるのも悪くない。
一番驚いているのは、ニコルやブランシュと違い、弾き語りを初めて聴いたルノー。まさかこれほどまで。腰が砕けそうになる。
(いや、こんな子がいるのか? ピアノも歌も。まるで両方ともプロのよう……いや、むしろ『あえて』アマチュアのアンバランスな部分を残しているような。この曲のために。末恐ろしい……)
『あえて』ミスタッチをしたような。だがそれが減点になるどころか、青い恋を十二分に演じている。本当にクララがピアノに乗り移っているのでは……そんなことも考えてしまうほどに。ミスで聴衆をより甘美な世界に引き摺り込むなんて。そしてたった一分半で魅了するカリスマ性。
数秒の間を置いて第二曲。先はまだ長い。シシーのボルテージは上がっていく。




