25話
目の端に涙を浮かべそうなブランシュとは対照的に、ニコルは打算的な鋭い眼光を演奏している女性に向ける。だいたい悪いことを考えているときはこの顔である。舌なめずりをし、
「なんていいタイミング。『共感覚』を持っていればもう終わりよ。囲って残り九曲も全部協力してもらうわ」
「そんな無茶な……」
ここまで嘘で生き抜いてきたこの人である。軟禁くらいなら辞さないのでは……と、妙な緊張をブランシュは覚えた。背筋にヒヤリとしたものが流れる。もし本当にやるのなら……私の部屋で……?
曲の終わりで一息つく瞬間、勢いよく立ち上がり遠目からニコルは賛辞を送りながら、客席を降りて行く。
「ブラボー! はい、練習ストップ! やめやめ! ちょっとごめんねー!」
いきなりの来訪者に、女性は驚いたような表情を見せた。が、ブランシュのヴァイオリンケースを見て、なんとなく納得した。
「え、誰? ヴァイオリン専攻の人? ここ使う?」
楽譜をまとめて女性は立ち上がった。日曜日だが制服を着ている。段差を降りて、ニコル達と向き合う。
「いえ、違うのですが……すみません……」
後ろからついてきたブランシュが、まず謝罪から。練習中に勝手に入り込んだ上に、集中を切らせてしまった。自分も演奏するからわかるが、一旦集中が切れると、もう一度入り込むのは時間がかかる。静かなホール内で小さくこだまする。
方や、威風堂々、自信満々にニコルは真っ直ぐ女性を見つめ返した。
「ここで出会ったのも運命ってことで、私はニコル。ひとつ聞きたいんだけど、ブラームスの『雨の歌』ってどんな香りがする?」
と、脈絡もなく途中をすっ飛ばして結論だけ問いただした。「率直な意見でいいからさ」とフォローするが、そう言う問題ではない。
女性は呆気に取られて、聞き返した。
「香り? どういうこと?」
ごもっともな返答である。目線をブランシュに変えてきた。詳しい説明を、とでも言いたげな疑問に満ちた表情だった。
もう一度、ブランシュは謝罪から入り、順を追って説明する。やはりニコルさんに任せるのは、なにもかも人類には早すぎる、と再確認した。
「すみません、私、普通科のブランシュ・カローと申します。先ほどブラームス弾かれてたかと思うのですが、よく弾かれるのですか?」
「え、ええ。ピアノ専攻のヴィジニー・ダルヴィー。今度のノエルの教会リサイタルにもブラームスで予定しているし、昔から多い、かな」
と初対面の挨拶をすませる。悪い子ではなさそう、それがヴィジニーにとって、ブランシュの第一印象だった。なんとなくだが、ヴァイオリンも『できる』子だと、直感で理解する。彼女はこういった勘が鋭いと自負していた。
「あの、それで……もし、だったらで大丈夫なのですが、ピアノを弾いたときに、なにか違った感覚が……」
「あー、もうまどろっこしい。ヴィズはさぁ、『共感覚』って持ってる? 音が香りとして感じられる、みたいな」
前置きが長すぎる、とニコルは横から割り込んで質問する。いきなりニックネームは馴れ馴れしい気もするが、お互い気にしていない。さっきよりはかなりわかりやすい文章だ。
今回はちゃんと伝わったらしく、「あぁ、そういうこと」と、ヴィズも理解した。
「んー、ないかな。そういうの聞いたことあるけど、持っている人に会ったことはないなぁ。少なくとも、音楽科にはいないんじゃない?」
「ぐぬぬ……!」
悔しそうに顔を歪めるニコル。近道が一気に閉ざされた。難しいだろうな、と思いつつも、さすがにひとりくらいはいるだろうと甘く考えていた。
続きが気になった方は、もしよければ、ブックマークとコメントをしていただけると、作者は喜んで小躍りします(しない時もあります)。




