248話
「……はい」
本当に。感謝しかない。ブランシュは自分の境遇に改めて充実する。
軽く試弾し、シシーの準備も万端。緊張はない。
「とはいえ、俺はピアノに関しては素人みたいなものだからね。ただそれっぽく弾けるだけ。ま、全力でやってみるよ」
なんせまだ始めて一週間も経っていない。ピアニストを名乗るのも烏滸がましい。
「……お願いします」
頭が上がらない。ブランシュはシシーの目を見ることができない。後ろ向きなことしか考えられない自分が嫌になる。
そんな姉の背中を優しく叩くニコル。悪い気を流すように。どこかに飛んで行くように。
「とりあえずよかったじゃん。場は整ったわけだし。しかし閉店後のデパートってのはなんかこう、湧き上がるものがあるね」
コスメとか。安く買えたりしないもんかね?
しかし一応は仕事の助手ということでまかり通っている。ルノーは注意喚起して問題がないようにしなければならない。
「あんまりあっちこっち行っちゃダメね。調律と試弾ってことで許可もらってるんだから」
ホールのピアノなどは、そのメーカーの専属調律師以外や、提携している調律師以外では大きく音をいじることを禁止していることもある。ストリートピアノや教会などでは特に決まりはないが、もし今回の調律により評判が上がり、ピアノの重要性に気づいたデパートの運営元からの依頼が今後来るかもしれない。
そういった意味ではアトリエとしては、顧客獲得のためには利益もそうだが、デパートとの関係性を悪化させるわけにはいかない。そう考えるとサロメが来なくてよかった。あいつは勝手に店のものを食べる。
先手を打たれたニコルは気の抜けた返事。
「はーい、ありがとうございまーす」
なにか店のものがあれば食べようと思っていた。ダメか。
そして凛とした空気が張り詰める。まわりではブティックの店員などが忙しなく動く。まるでここだけ空間から切り取ったかのような。イスに座るシシーを見たルノーは「あ、この子上手いな」と直感で悟った。
「だが、ピアノを触り始めで歌曲の弾き語りとはね。さすがに私もこの業界は長いけど初めてだ。しかも本場ドイツ語」
一週間など、まだ両手でぎこちなく確認しながら、というのが普通だろう。そんな常識が通用しない。歴史の証人になるかも。
「私もです。なぜか……すごく緊張します」
プラスしてブランシュは胃痛さえしてきた。夜中に抜け出している、という後ろめたさもあって。




