244話
しかし唇を尖らせてイリナが明かす。
「奢りじゃないならって帰った。あいつらしいけど」
あまりピアノの裏側には興味がないらしい。ま、そういう人もいるだろう。
しかしそんなに珍しいものであれば、頼んだベルとしても調律できるのか気になる。いや、怪しんでるわけではないけど。
「最近とか、このメーカーの調律はあったんですか?」
思い出しつつ、苦い顔でルノーは答える。
「先月かな? サロメともうひとり。うちのエース二人がかりでなんとかね。まぁイレギュラーがあったからなんだけど」
パリでは有名な、ピアノを設置してある古書店。映画のモデルにもなったことがあるほどに海外からも人気のある店だが、そこの環境が特殊すぎて彼女ひとりではどうしようもなかった。
「サロメでも……」
あの。天上天下唯我独尊。世界最自由のあの子が。助けてもらったイリナとしたら、彼女でも困難なピアノというのは中々に複雑。
こんな陰で失敗談を披露しているのがバレたら、またなにか言われる。全員に秘密にしておくようにと念を押しつつ、ルノーは一応肩を持つ。
「本人に言ったら否定しそうだけどね。普通の状態であれば問題なくいけたはず」
能力が高すぎたがゆえの失敗。今日のグロトリアンなら彼女で対処できただろう。ならやってほしかった。
さて本題。調律をお願いすることになった原因。イリナが腕を組む。
「でもベルがこのピアノから感じた『不思議さ』って結局なんなんだ? なんか変なとことかあるのか?」
「不思議さ?」
それは初耳。ルノーも興味深く振り向いて視線を向ける。
その先のベル。一気に全員から見つめられると無駄に緊張する。明確な答えもない。
「……このピアノから……なんか普通じゃないような……」
としか。それ以外に答えようもない。
だがグロトリアンというピアノ。当てはまるかわからないが、ルノーは簡単に否定できない。
「……」
「なにか心当たりが?」
てっきりヴィズとしては笑い話になるかと思っていた。だが、そうでもなさそうな雰囲気。
その艶やかな時代背景をまず、ルノーとしては教えておく必要があると判断した。と、同時にそろそろ仕事を始めようと、蓋を開けてピアノ本体から鍵盤とアクションを引き出す。
「グロトリアンは稀代の女性ピアニスト、クララ・シューマンが愛用したことでも有名でね。彼女が愛用したのは特別な『グロトリアン・ヘルフェリッヒ・シュルツ』というピアノなんだけど、その魂は受け継がれている」
物珍しそうにチラッと覗く客も出てきた。女子高生の集団と、道具を持った中年の男性。それだけでも少し異様。




