241話
「こいつ……!」
奥歯をギリギリと噛むイリナ。そこまで言われると、この状態でやってやろうという気迫が生まれてくる。バチバチと見えない火花が散る。
そんな二人の間を通ってベルがピアノに近づく。その黒く滑らかな楽器の王のみが脳内を支配する。導かれるように。
「……」
「?」
それを珍妙な生き物かのように見守る三人。もちろん、これはコンクールではない。先ほどの観光客のように、楽しんで弾くぶんには多少の制限はあれど問題もない。だが、その道に進もうとしている人々にとっては窮屈そのもの。少なくとも、我々の評価は低いであろう。
いわゆる『壊れた』ピアノ。それでもベルにはなぜか惹かれるところがある。そして提案。
「……これさ、私達で直せないかな? これ、なんかよくわかんないけど、このままじゃダメな気がする」
えーと……なんでなのかは言った通りわからない。でも。言葉にはできないけど。メーカーは……グロトリアン。重厚な音を持つピアノメーカー。勿体無い。
雑踏の音がよりくっきりと耳に入ってくる。それくらい、言われたことは突拍子もない。大きなため息を吐きながらヴィズは正論で断ち切る。
「無理よ。道具もない。知識もない。許可もない。それは調律師に任せるしかないわ」
ピアノが弾ける調律師は多いが、調律のできるピアニストはほとんどいない。できても本職には全く及ばないというのが現状。ピアノの修理というものは、弾くこととは別の方向性にあるため、技術を身につけるには時間がかかる。
だよね……という悩ましい顔つきでベルは諦めを悟る。
「そっか……なんか……うーん……」
それでも視線から外せない。なんなんだろう、ピアノであるのは当然として、そこから少し逸脱している感覚。良い悪いとかではなく。
ピアノ次第で大幅に評価を変えるベルという少女。尖った才能のセンサーがなにかに反応した? ヴィズにはわからないが、解決方法は浮かぶ。多少強引だが。
「サロメに相談してみたら? あの子なら許可もなにもかも全部押し通して調律してくれるでしょ。問題は——」
「やる気になるかどうか、だね。とりあえず連絡してみる」
調律といえば。同じ学園に通う彼女のことは、ベルにも頭にあった。携帯でメッセージ。すぐに返信がきた。
「どう?」
予想はできているけども。一応ヴィズは問う。だが。
「『面倒』だって。でも社長さんが来るらしい。いや、社長を動かせるアルバイトってのもすごいけど……アトリエなら調律の許可ももらえるだろうって」
やっぱりね、という確信は置いておいて、調律されることにひとまず安心のベル。この胸のザワつきの正体も知りたい。




