236話
パリの街並み。冷たい澄んだ空気に包み込まれ、温かい装飾の灯りが彩る夕暮れ。もう止みはしたが、降っていた雨の影響でアスファルトは濡れ、寒々しさに拍車をかける。
「それで。どうなの、あのシシーって人」
見慣れた教会にビル、古本やポスターを露天で売るブキニストなどを横目に、カルメンがいつものように感情薄めに問いかけた。学校終わりの散策兼お茶会。適当な店を見繕う。
さすがにテラス席は嫌だな、そんなざっくりとした希望を持ったイリナは顰め面になる。
「気になるならお前も来い」
基本的に教えているのは自分。いや、教えると言うほどのことはなにも。弾けば勝手に覚えてしまう優秀な生徒。人柄もいい。なんら困ったことはない。
「やだ。どうせ私今回出番ないし。で、どうなの」
誰かが毎回担当しているピアノの役割。それは自分ではないとカルメンは認識している。ならばそれは誰かがやればいい。教えるのはなんというか、むず痒い。
冷静さという点では他の追随を許さないヴィズではあるが、今回ばかりは気落ちする部分がある。
「シシー・リーフェンシュタール。怖いわね。性格が、じゃなくて、吸収力というか。暗譜なんかには必要だけれど、記憶力に特化した演奏なんて初めて。今まで自分達が習ってきたこと、学んできたことが軽く否定されそう」
真似ることは非常に重要。型をまず完璧にしてから、自分の色を出していく。そして最終的には自分のものに。最初の部分に時間がかかるのだが、そこを一気に吹っ飛ばされた。まだ夢の中にでもいるよう。
一歩、みなよりも前に出るイリナ。そして星の見えない空を見上げ立ち止まる。
「まぁ、そうは言ってもあたし達の感覚も、過去の記憶に基づいてるわけだからな。習慣的な記憶、つーの? それがシシーはとんでもないって話であって、チートでもなんでもない。信じられないけど、いるんだな、そういうの」
目を瞑ると、数日前のことが思い出される。他人の真似をしようとして、自分自身の音を見失ったこと。そこから学習した。どんなに才能がある者でも、イリナ・カスタの音は奏でることはできないし、その逆も然り。音楽は『いかに曲を、作曲家を理解するか』。
この子は感情が出やすく、冷めづらい性格だったはず。ヴィズは感嘆する。
「やけに物分かりがいいわね。最初に食ってかかってたの、あなただったと思うけど」
図星をつかれたイリナ。少し焦りの表情。
「うっさいなー。冷静、冷静になった」
はいはい、と歩を進める。精神力。メンタル。もしも自分が今回のような形ではなく、正式に誰かにピアノを教えるようなことがあれば、そこを重点的に伝えていきたい。もう迷わない。




