232話
ホールでは、軽やかなピアノが聴こえる。煌めくような歌声も。すでにミスタッチもなく、正確なリズム。感情がこもり、まるで本当に自分の切ない恋心を歌っているかのような。
ゆっくりと、舞台のスポットライトに近づくにつれて、姿を現す。誰かに引っ張られているように足取りが重いブランシュは、もっと長い階段だったら、気持ちを落ち着けさせることができたのかな、と中途半端な心持ちのまま声をかけた。
「シシーさん」
約三〇分の連作歌曲。歌い終えたシシーは静かに舞台下の少女に視線を向ける。
「やぁ、ピアノは全部覚えたんだけどね。歌唱と一緒となるとなかなか。難しい問題だ」
歌う度にシューマンの気持ちが流れ込んでくるよう。少しずつ曲を通して彼というものが見えてくる。切なくて。でもそれが美しくて。噛み締めると、自然と歌に反映される。だが、それでも掴みきれないもどかしさと楽しさ。難しいは楽しい。
初めて挑戦した、というレベルではもう当然ない。特に歌。そこでひとつブランシュは提案する。
「マイクを使用する、というのは」
小規模のホールなどでは基本的に使うことはない。だが、数千人規模ともなるとそうもいかない。これは歌い手に遠くまで声を飛ばす力がない、というものとは違い、他の歌い手とのバランスを取るために必要となってくる。その他録音などもあれば当然使う。
オペラや歌曲において、歌い手は『ベルカント唱法』と『ドイツ唱法』いう歌唱法が主に提唱されている。その違いは大きく分けると『横隔膜』の使い方。押し上げて低音から高音までの煌びやかな伸びを重視するイタリア式と、固定して重厚な声質を追求するドイツ式。
どちらが優れている、というわけではなく、演じる曲目などによって使い分けるのだが、どちらも両方使えるという歌い手はほぼいない。相反する使い方であるため、両方を学ぶとその両方に悪影響が出てしまうことが多い。そのため、どちらかにする必要がある。
明るく輝くような流動性を持つベルカント、明暗の輪郭を際立たせる芯のあるドイツ。諸説あるためそれらが全て正しい、というものではないのだが、シューマン『詩人の恋』に関してはドイツ唱法が適している、と判断することが多い。
という使い方をヴィズに習ったシシー。当然、一朝一夕で覚えることができるものではない。が、今の自分にできる最大限で歌いきることだけにフォーカスしている。
「それもなきにしもあらずだけどね。だけど観客が満席でいるわけでもない。だったら生の声のほうがいいだろう?」
言葉通りなのだが、全てにおいて注目を集める麒麟児。披露する際には多数の音楽科の生徒も来場が見込まれる。なにせ一週間足らずでドイツリートを形にしてしまうなど前例がない。




