231話
頭に鳴り響くは歯切れのいいエキゾチックな民族音楽。だが、それと同時にベアトリスの脳裏にはマイナスなイメージも。
「……構成はどうするつもりだ? リャプノフの管弦楽編成か?」
作曲したバラキレフにも弾くことができなかったほどの難曲。ロシアの作曲家、セルゲイ・リャプノフにより編曲されたものも存在するため、そちらを基準にする場合もある。
音もなくギャスパーは笑う。風向きが変わる。瞬きほどの凪を皮切りに。
「そこは任せるよ。私は聴く専門。弾くのはキミ達。好きなように変えてもらっていい。そこは自由に」
ただの香水を作るだけなら、自分が聴いてイメージするだけでいい。だが、今回のテーマは。弾く者にしか作れない香水。香りの可能性。元々、五感の中でも最も不必要とされた感覚。それを追求した先にある果実。
ひとつ、呼吸をしよう。ほんのりと涼しい空気がベアトリスの肺に満たされる。
「これをピアノで完全に弾ける人間など存在しない。私になにを期待してるのか知らんが無理だ。他を当たれ」
それなりに弾くというのであれば、それでも難しいがプロであれば可能。だが、真にこの曲を初稿のままで弾くとなれば。それはもう墓からホロヴィッツでも引っ張り出してくるしかない。
これ以上は無理か。諦めにも近いため息。しかし収穫も手応えもある。ギャスパーは焦らない。
「それは残念。オーロールにも声をかけてるけどね。キミのピアノがないなら彼女は弾くことはないだろう。あの子にとってキミのピアノこそが——」
「帰れ」
強い感情のこもった声でベアトリスは反応した。もう聞かないと思っていた名前。いや、そんな珍しいものでもないかもしれない。だが、その名前とセットで真っ先に浮かんでくる音がある。
イスから立ち上がり、満足そうにギャスパーは退店の準備。とは言っても特に持ち物はないが、コートを着直す。
「やれやれ。あ、ショコラは置いていくね。シャルルくんとでも食べて」
最初からそのつもりだった。自分用のものは買ってある。他のお土産も配りにいかないと。そして逃げるように外へ。
からんからん、とドアチャイムが店内に響く。その音が。ベアトリスになにか伝えているようで鼓膜に残る。
「……」
オーロール。もし、再度共演するとなれば。なんてことは考えない。あいつも私ももう音楽は捨てた身。だがもしも。もしもがあるなら。その時は——




