230話
当然のようにベアトリスもショコラは好き。ありがたく貰う。
「そりゃどうも。じゃ、帰ってもらって——」
「いやいやいやいや。引き受けてくれるなら置いていく。引き受けてくれないなら持ち帰る」
ヒョイっと持ち上げ、無かったことにしようとするギャスパー。なかなかドイツに行かないと手に入らないもの。きっと欲しがるはず。が。
「じゃあやっぱり帰ってもらって。弟にショコラは作らせるからそれでいい。たかが数ユーロのためにストレスは溜めたくないんでな」
話はおしまい。一瞬、揺らぎかけたが天秤にかけた結果、ベアトリスの不満が食欲に勝った。これで平穏が訪れる。
のも束の間。
「はい、これ」
相手の都合など無視。そんなものは些事に過ぎない。とでも言うかのようにギャスパーはついでにテーブルにひとつ。空の小瓶のようなもの。
怪訝そうにベアトリスは手を止めてそちらに注目する。
「……なんだ? 香水のアトマイザー? それはあいつ、ブランシュとかいうヤツのものだろう。私に押し付けるな。詳しいわけでもない」
たしかクラシックをテーマに香水を作っていると。それを自分にも作れと? 鼻で笑う。
反応は思ったとおり。すんなりといかないことはギャスパーには百も承知。
「だけどクラシックには詳しい。聞いてるかもだけど今は四本目、シューマン『詩人の恋』。全部で一〇本必要でね。まだまだ先は長い。ピアニストにも得意と不得意がある。キミの力が必要だ」
友人達が手伝ってくれてそうだけれども。得意な作曲家、テンポ、時代なんてのも人それぞれ。全てに対応できるピアニストはいないと言っていい。ならば手分けしてやろうじゃない?
一瞥もせずにテンションは下がりきったまま。夕飯のことを考えながらベアトリスは適当に対応。
「知らんな。巻き込まないでほしい。私は花屋の経営で手一杯だ。ピアノなんて——」
「バラキレフ『イスラメイ』。この曲がそのうちのひとつだとしたら?」
相手の反応。それを感じ取ったギャスパー。一瞬、動きが止まったのを見逃さない。
史上最高難度のピアノ曲。そのひとつに数えられるであろう。ミリィ・バラキレフ作曲、東洋的幻想曲『イスラメイ』。あまりの難しさゆえに、あのリストでさえ最大限の興味を示したという逸話もあるほど。他の難曲も、このイスラメイの難しさを基準として作曲されたりしている。




