219話
まるで放課後のような雰囲気ではあったが、まだこれから学校が始まる。エスプレッソを飲んで気合いを入れよう。そうウェンディはキッチンに向かおうとした。そこに。
「……香水、ねぇ」
上のベッドで寝ていた人物が声を発する。その口調から、だいぶ前に起きていたことがわかる。少し不機嫌。
眉間に皺を寄せてウェンディはその方向に目を向けた。
「なーにさ、リー。起きてたんなら会話に加わってくれてもよかったんだけども」
怒りより呆れ。別にいいのだが、会話をずっと聞かれていたのはちょっと恥ずかしい。なにかイジるようなこと言っちゃってたっけ?
リー・メイニャン。普通科に通う生徒。成績は普通。色々と平均的な少女。布団の下から会話だけ参加。
「やだね。なんであたしがそんなこと。てかあんたの声がうるさくて目が覚めたんだっての」
やっぱり機嫌悪し。いや、もう起きる時間だけどとツッコまれることは想定していない。
ジロッと布団に包まれた塊を睨むと、相手にしないようにしよ、とウェンディは適当に謝る。
「そいつぁ、失礼しやした。コーヒー飲む? 淹れてあげようか」
だがいい出会いには感謝したい。そんな気分をお裾分けしてあげる。
ふはっ、とリーは邪悪に吹き出す。
「いやに機嫌がいいね。グウェンドリン、じゃラテアートもよろしく」
さらに追加でややこしい注文。ミルクで絵を描け、と悪ノリしていく。そして——。
「おいおいおい。もっと愛を込めてウェンディって呼んでほしいね。そんな堅苦しくなくさ」
本名で呼ばれたことでウェンディは訂正を求めた。せっかくの同室なんだから。そんな距離を感じさせるような呼び方。
グウェンドリン・グラシエット。通称ウェンディ。フランスはレンヌ出身。普通科。普通に普通の成績と、ある程度の数の友人に囲まれた、適度に充実した学園生活を送る少女。
隣のキッチンでエスプレッソマシンを起動させている少女に対し、リーはひとつ気になっていたことが。先ほどのブランシュとの会話。
「てかさ。タランテラって……」
機械のやかましいキッチンから顔だけ出したウェンディ。こちらも負けじと悪い笑み。
「そう。あの有名な蜘蛛、タランチュラが語源でもある。この毒蜘蛛に噛まれたら、激しく踊ると治るとされていたんだってね、当時は。おかしいでしょ? 毒なんかほとんどないのに」
毒蜘蛛、と聞くとタランチュラは上位にランクインするほどには有名な名前。だが実際には臆病で噛むこと自体少ない上に、毒性はかなり弱い。噛まれると痛いが、それだけ。名前のついた当時は、民衆は情報に疎かったのかもしれない。
はぁ、とため息をついてリーは先の少女に同情した。
「まーたあんたは変な嘘ついて。ブランシュって言ったっけ。あの子も可哀想に」
なんでせっかくできた友達にそんなことするかね。自分にはわからん、と諦めの境地。
とはいえ、それがただの友人間の些細な牽制、程度のウェンディの理解。
「ま、意味のない誰も傷つけない嘘はもう、私の癖みたいなものなんでね。実は知ってました、って言っても笑って許してくれるでしょ」
マシンで温めたミルクをピッチャーに。さて面倒だけどアートしちゃうか。やっぱやめようか。ま、ハートくらいは。そんな葛藤しつつ。
彼女の基準はよくリーにもわかっていない。ブランシュは笑って許してくれそうだけども。
「さぁね。んで? 誰にあげるの香水は。あたし?」
あまり虫は得意じゃない。タランチュラ。無理無理。
完成した香りはもちろんまだわからない。が、今からすでに興奮しているウェンディは、多めに作っておいてもらおうと画策。
「間接的に『毒』をイメージした香水っていいでしょ? ハードボイルドな感じ」
「ハードボイルドかは知らないけど。あたしはごめんだね」
毒というのならば、まだフグとかそういうほうがリーは好きだ。食べられるし。スローロリスもたしか毒があるんだっけ? と余計なことも考え出す。飼いたい。
人知れずキッチンでアートに悪戦苦闘するウェンディ。ハート……いいや、もう適当で。どうせ飲むだけだし。ガバッとミルクを注ぐ。
「ま、この世にはそういうのを好むのもいるって話」
ただのカフェラテとなったその液体。高揚する気持ちを鎮めるため、リーのためのものということは忘れてひと息に飲み干した。




