208話
その中で唯一わかっていないニコルは、小声でブランシュに確認する。
「そうなの?」
全くわからなかった。違いなど。むしろ、ひとりで生み出しているという事実がさらに曲の完成度を引き上げているとさえ。
「……はい、たしかに細かいタッチなどはイリナさんに軍配は上がります……が」
言葉を濁すブランシュ。ピアノの鍵盤には音の鳴り出す『深さ』がメーカーによって違う。明瞭な音を『粒立ち』という風に言うこともあるが、それは鍵盤を深く押し切った時に生まれる強さ。あえて音の鳴るギリギリでぼやかす技術で心情を表現するなど、様々に工夫を凝らして演出するピアニスト。
そういった点ではイリナのほうがより『揺らいで』いたと言える。シューマンとの近さでは。
語尾が気になるニコル。さらに追求。
「が?」
すぐに言葉にはできない。ブランシュは何度も歯で言葉を砕くが、何度も再生して言の葉として形を成す。
「……歌詞を覚え、なおかつピアノも記憶し、それでいて恋心の表現が見事、としか」
歌唱という部分では、これ以上ないほどに体の芯に突き刺さった。最後、クララに看取られたシューマンが見えた気がする。
「……それ、なんかすごいの?」
ニコルは当然ながら曲への理解、時代背景、その他諸々に興味はない。つまり、全くわからないがみんな驚いている、とキョロキョロとするだけ。
いつもであれば呆れ顔で説明を開始するブランシュではあるが、驚きが勝りそんな余裕もない。
「……シューマンらのロマン派はよく、旋律を『揺らす』という言葉を使うのですが、シシーさんは恋の不安定さを引き出すために共鳴腔で倍音を作って『揺らして』いたんです。いわゆるビブラートです。その使い所が……非常に」
人間の体内には『共鳴腔』という、声を響かせる器官がいくつか存在する。ビブラートは基本の技術であり、底の見えない奥義でもある。いかにその共鳴腔を使いこなせるかが鍵。当然、ただ響かせればいいというものでもないため、ここでも『流れ』を意識して使いこなすことが重要。
ポロン、と軽く鍵盤をグリッサンドさせるシシー。音が気持ちいいくらいにレスポンスをくれる。
「お褒めに預かり光栄だ。けど、そんな大それたものでもない。まだ始まったばかりの恋なのだから、余韻を持って終わらせたほうがいい、そう考えただけだ」
理解などない。ただただ自分に重ねてみただけ。シューマンとは気が合うのかもね、と戯ける。
「それにしても、リタルダンドのかけ方やアクセントの位置なんかも完璧だった。この曲を知ってた、とか」
言葉少なめではあったが、カルメンとしても納得がいかない。階段を一段飛ばしどころか、エレベーターで昇ってこられたような衝撃。どういう生態?




