205話
「……ヴィズ、上手いじゃん」
ピアノの演奏を聴いたことはあったが、まさか歌えるとは。一番に拍手をしだしたのはニコル。自然と称えずにはいられなかった。
その後、数瞬を置いて鳴る喝采の中、同様に驚嘆を持ってブランシュも目を丸くする。
「……はい、とても気持ちのこもった、素晴らしい歌だと思います」
当然、本格的にやっているわけではないので粗はあるのだろう。だが、ピアノとの距離感などは声楽科の人達にも劣らない、専門的な強さがある。音をよく聴いている。
口角を上げつつ、イリナは向き直る。
「……ま、こんなもんかな。簡単でしょ? ピアノ」
その先には拍手を続けるドイツの超人。これくらいはやれるよね? そんな言葉が乗ってくる。
最後にひとつ大きく手を叩いたシシーは、先ほどまでの九〇秒にも満たない、短い至福の時間を再度噛み締める。
「……なるほどね、いい曲だ。美しい。ありがとう」
「私のは参考にしないほうがいいわ。動画や声楽科の生徒に見本を見せてもらうほうが、身につくでしょう」
歌い終わったヴィズはすぐに忘れて欲しいと願った。この場にいる全員に。
しかしシシーは一歩近づき、褒め讃えることを惜しまない。
「そんなことはない。素敵だった。より俺の心に響いた、素晴らしい歌声だったよ」
それは心からの。荒削りなところがあったとしても、シューマンの心境にはそのほうが近いのではないかとさえ。
多少の恥ずかしさと同時に、真っ直ぐにそう言われるとヴィズも悪い気はしない。
「それはどうも」
「じゃ? やってみよっか」
急かすようにイリナがイスをポンポンと優しく叩き、誘導する。次はあなたの番。
そこにしばらく口を噤んでいたカルメンも、嗜めるように否定に入る。
「無理でしょ。初見だし。いくらなんでも期待しすぎ」
ピアノ専攻であれば初見でも難しくはない曲。だが、これは歌曲。上手く弾くことよりも、曲自体の完成度が優先される。あえて崩すように。あえて乱すように。そういった工夫を素人が入れることなど、できるはずもない。
そんなことはお構いなしに、シシーは静かにイスに座る。ピアノがよく似合う、まるで絵画の世界の住人のような神聖さ。
「ま、心踊るね。いい曲、いい演奏のあとだ。恥じないように頑張るよ」
そして鍵盤に指を置く。チラッと八八の鍵盤を全て確認。そして心拍数そのままで最初の一音を奏でる。




