204話
しかし意気揚々とイリナはイスに座る。今日一番の笑みを浮かべて。
「いいじゃん、本人もやる気あるんだし。あたしが弾くからさ。よく見てなよ」
軽くストレッチして指をほぐす。そして椅子の高さを調整。
「ありがとう。優しいね」
せっかく弾いてくれるのだから、しっかりと聴かないと。その横にシシーは移動して、見やすい位置に。
もちろん、指だけではなくペダルも弾くのに重要だ。足元もよく見ておくようにとイリナは助言。
「……歌は……ヴィズ。軽く歌唱頼んでいい?」
ついでに巻き込む。この小さな祭りに。
「なんで私が。断るわ」
当然のようにヴィズは拒否する。歌は自身の担当する範囲からは外れている。歌詞もわかるし、歌えないことはないが、進んで歌いたいということはない。
しかし興味津々とシシーは一歩近づく。
「ヴィジニーさん。それも頼むよ、歌詞は探せば出てくるだろうが、生で知ることが楽しみなんだ」
やはりそのほうが記憶にも残りやすいし、感動もする。文字だけでは味気ない。
そう言われてしまうと、協力をお願いしている以上、断りづらいヴィズ。生きた音、重要性はたしかにわかる。
「……ヴィズ、でいいわ。ま、期待はしないで」
悩んだ末に承諾。演奏で緊張することはほぼないが、歌は別。こういった場であってもジワジワと多少はしてくる。
その気遣いにシシーも感謝。
「ありがとうヴィズさん」
朗らかなやり取り。それもまたイリナはムスッとする。
「じゃ、やるぞ。一番だけだけど」
ひとつ息を吐く。緊張が伝染してきたようで、手に汗がじっとりと浮かび上がる。
第一番『素晴らしく美しい五月に』。切なくも美しいピアノ伴奏から始まるこの曲は、一番にして最大の難関とも言われる曲でもある。ドイツで最も美しいとされる五月、そこで芽生えた恋。不安定な調の構成が、その揺れ動く恋心を表現している。
指示通り、緩やかに夢の中を揺蕩うような甘さ。しかし進むにつれ、同一の音形であっても微妙に差のある速度が、より深みを増したロマン派の真骨頂でもある。次第にテンポを落としながらのピアノ伴奏。そして歌い出しとの呼吸を調整する。
強調や響き、滑らかで包み込むようなピアノの音。そして八分のリズム感とクレッシェンドなどを駆使しながら、咲き誇る花をイメージして歌い上げる。
歌い終わったところでピアノはその流れを受け継いだまま、優しく余韻を持たせて終曲する。高音を粛々と歌う、そのもどかしさがシューマンの『らしさ』であると語る専門家も多い。ホ短調とト長調を行き来する、その『揺らぎ』をいかに表現するか。そこに個性と技術が凝縮されている。




