186話
「厄介ごとはお断りなんだがな」
パリ八区にある花屋〈ソノラ〉にて、店主のベアトリス・ブーケが言い放った言葉の温度は、限りなく冷たい。一〇度を下回る外の気温よりもさらに。
店内中央付近のイスに座った彼女を真っ直ぐに見据え、入店したばかりのニコル・カローはニヒヒっと口角を上げた。
「まぁ、そう言いなさんなって。一応感謝してるんだから、さ。ガムかむかい?」
と、さも当然のように向かいの席に座り、頬杖を突く。そして一枚の板ガム。コーヒー味。さっき買った。
少し首を傾げ、気だるげに対応するベアトリス。
「いらん。さっさと帰ったほうがいいぞ。もうすぐ次のお客さんが来る。うちは予約制なんでな」
もし来店した際に他の客がいたのでは、気まずさが漂ってしまう。ゆえに早く帰れと。しかし。
「あー、大丈夫大丈夫。それ私だから。弟くんには偽名を教えちゃって申し訳ない」
しれっと店を欺いたニコル。「悪いね」と、少しも悪びれた様子はない。
「で? 用件は?」
面倒、という適当さを感じる応対のベアトリスは、店内に視線を移した。真面目に取り合う気はない。
さらに体を寄せて、囁くようにニコルは問う。
「……三つ目までは終わった。あなたの率直な感想が聞きたい」
先ほどまでのお気楽さはなく、真面目な声のトーン。全権でも託すかのように、遊びのない声色。
しかし、その矛先のベアトリスは一切、心が揺れていない。
「ただの花屋だ。クラシックなんぞ知らん」
弟と、花と。それだけのただの人間。ちょっとだけ、ベルには指導っぽいことしてるけど。
一度姿勢を正すニコルだが、少し笑みを浮かべて背もたれに寄りかかる。
「そう言わないでよ。本当はあなたも——」
と言ったところで口をつぐむ。目の前の人が突き刺すような目つきに変わっていた。
「……私も、なんだ?」
そのベアトリス圧力に屈し、ニコルは肩をすくめる。
「……いや、こっちの話。それよりも四曲目。決まったから報告にね。また力を借りるかもしれないからさ」
と、一枚の小さな紙をテーブルの上に置いた。なにか小さく記されている。
数秒その紙を睨みつけたベアトリスは、無言で拾い上げる。そして確認。
「……おい、どうする気だこれ」
紙を突っ返すと、その内容に言及した。若干、呆れている。
その感情の変化についていけず、ニコルは「ほ?」と間抜けな声。
「どうするって、もちろんブランシュが弾いて作って弾いて作って、を繰り返して——」
「読んでみろ」
脱力した体勢でイスにかけるベアトリスは、軽くテーブルを叩いた。
なにかの暗号? 興味津々にニコルは眼前に紙を持ってくる。が、作曲家と曲名がいつもの通り書いてあるだけ。
「……シューマン『詩人の恋』。なんかロマンチックだねぇ」
恋とか愛とか。これぞロマンじゃないの。体をくねらせて表現。
その様に、ベアトリスはひとつ大きめのため息を吐いた。
「呑気だな。それはクラシックだが、その中でもドイツリート、つまりドイツの歌曲だ」
トントン、と再度指でテーブルを突く。
それを脳内で処理したニコルは、結果、目をキョロキョロと動かしてさらにじっくりと消化。
「……歌曲? 歌? 歌うの?」
え、私? まいったなー、ついに姉妹でコラボしちゃう? 美声がバレちゃうなー、などと照れていると、非情なベアトリスの宣告。
「歌うどころかその曲は——」
ジトっとした目を投げかけ、息を吐いた。
「ヴァイオリン、使えないぞ」
さて、とイスから立ち上がり、ベアトリスはコーヒーを淹れに店奥のキッチンへ。なんとなく、今日のエスプレッソはシアトル式にしよう。
ひとり残されたニコルは、背筋を伸ばして、丸くなった目でその背中を追った。
「……え?」
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