182話
「……いや、ストラディバリウスってすごく高い、っていうか、どこに売ってるのかもよくわからないやつだけど……」
一気にブランシュという存在がなんなのかわからなくなってきたベル。そこらの楽器店で見かけるようなものでもない。中継などが入るオークションとか。そういうところで「史上最高額」とか。そんな盛り上がりを見せる、向こうの世界。が、今、そこにある……? ……嘘……?
説明係のサロメも詳しいことは不明。シュライバー、というものは確かに存在しているようだが、なにも情報はそれ以外になかった。
「それ。値段もわからない。高いやつだと二〇〇〇万ドルとかするらしいね。あれは知らない」
本物なのかも疑わしいが、嘘をつく必要も理由もない。ので、一応信じている。香りを音にする、なんていうオカルトを信じる酔狂な富豪でもいるのだろう。
今までで一番顔を顰めながら、カルメンは不満を口にする。
「なんで持ってるの」
不平等、と眉を寄せた。
「借りたんだと。いやー、世の中には景気のいい人もいるもんだ。学生に行方がわからなくなっていたヴァイオリンを貸しちゃうんだから」
どこまで信用していいのかわからないが、とりあえずサロメは伝えられた通りに認識しておく。いつかは化けの皮を剥いでやろう。悪巧みもかかさない。
現代のヴァイオリンの制作技術の進歩は目覚ましく、名器と呼ばれるものと比較しても、違いが明確には出てこないほど。だがそれでも、長い時間をかけてゆっくりと成長してきた楽器は、音色以上のものを生み出す。
「ヨハン・ゲオルグ・グレーバー『一八二〇』、そしてストラディバリウス『シュライバー』。どんな演奏になるのかしらね」
古楽器マニアなら寿命を売ってでも聴いてみたい組み合わせ。ヴィズは単なる音楽ファンとして楽しもう、と心に決めた。
息を吸う。視線が自分とイリナに集まっていることが、ブランシュにも当然わかる。空気が重い。どんよりと覆い被さる。でも、この曲はそういう曲だ。一〇分弱の短さ。それでいて楽章なども分かれていない。三種類の香水。そのロールオンのアトマイザーを一度に首筋へ。こうするしかないが、問題はない。
そして、凛と張り詰める緊張感。始まりの圧。
ブランシュは目の前に鏡をイメージする。暗闇でまわりはなにも見えない。鏡面だけが認識できる。
そこに写るのは死神。自分と死神の境界が曖昧に溶けていく。『死』とは。きっと。
感情。その奔流。




