176話
目の色を取り戻しつつある少女に、ルノーから若干のアドバイス。
「よく言われるんだが、現代ピアノが『歌う』なら、フォルテピアノは『囁く』とも言われる。曲によってはフォルテピアノのほうが合うかもね」
音量が出せないぶん、優しく奏でるフォルテピアノ。無論、ピアノでも『囁くように』弾くことは可能ではあるが、音質が違うためやはり専用の音となる。
まだ喋り足りないサロメもワンポイント入れる。
「特にベートーヴェンのソナタは、夥しい量のピアノが指定されている。かなり表現にこだわっていた証拠ね。わかっていると思うけど——」
「優しく、甘く、撫でるように、泣くように、その他たくさん。ひとつひとつの『弱く』を大事に、意図を込めて。大丈夫。ずっとやってきたこと」
小刻みに呼吸し、自分なりにイリナは呼吸を整える。覚悟はできた。吉と出るか凶と出るかはわからない。が、やらなければずっと大凶だ。
「ま、このあと調律するけど、違和感を感じたらまた調律してあげるからすぐに言いなさいな。ま、フォルテピアノは狂いやすいって言っても、あたしの調律でそんなすぐに狂うわけないんだけどね」
腕に絶対の自信を持つサロメ。調律に才能は必要ない、というのが彼女の自論ではあるが、それを支えるのは調律してきた数。
なんとかなりそう。ルノーはそんな前向きな風を受け止める。
「明日までなら大丈夫だろう。ここは自由に使っていいって許可はもらっている。それでヴァイオリンの子は——」
「すみません、遅くなり……これ、フォルテピアノ、ですか?」
ちょうど入室してきたブランシュが、息を切らしながら目に飛び込んできた木の芸術に圧倒される。まさか。ここでお目にかかれるとは。中々、コンサートやリサイタルでも弾き手の減ってきている古楽器。心臓がより高鳴る。
その驚いた顔が見たかった。上機嫌にサロメは肯定。
「そ。ヨハン・ゲオルグ・グレーバーの一八二〇年。マニアからしたら垂涎モノよ。明日までしか借りれなかったから、それまでにね」
「ブランシュ・カローさんだね。三区のアトリエ『ルピアノ』の社長、ルノーだ。よろしく」
右手を差し出すルノー。しかし、こんなか細い子が、と内心では疑いの目も。
そのまま握手で返すブランシュ。『ルピアノ』はある意味では有名なピアノの専門店だ。
「はい、よろしくお願いいたします。この度は、ありがとうございます」
「……お礼を言うのはあたしの役目なんだけどね。あたしも……ありがとうございます」
なんとなくバツが悪そうに感謝するイリナ。まだ成功が確約されているわけではない。むしろ失敗のほうが大きい気もする。どうしても怖さがある。
自分ができるのはここまで、とルノーは一歩下がる。あとはブランシュのヴァイオリンと、イリナのピアノ。そしてサロメの調律のみ。
「ま、頑張って」
「イリナがフォルテピアノだからね。ブランシュもなにか気合い入れないとね。ヴァイオリンに直筆サインでも入れてあげようか?」
ニヒ、っと笑うサロメ。ここはあたしが、と息を巻く。
だが、ヴァイオリンケースを開きながら、ブランシュは断りを入れる。
「いえ、大丈夫です。私には——」
「?」
不思議そうに眉を上げるサロメに、ブランシュはヴァイオリンを取り出した。そして深く息を吸う。
「これがありますから」
手にした歴史ある重み。眠りから覚める。その名は——
『ストラディバリウス』。




