175話
「……それでどうすんの? 力を抜いて練習するために持ってきた?」
いまだ全貌を掴めていないイリナ。目的を探る。
先ほどよりも険しい顔つきになったサロメは、トントンとフォルテピアノに指先で触れる。
「あんたまさか、フォルテピアノが現代のピアノの下位互換とでも思ってんじゃないでしょうね」
そう言われて、たしかに少しこの古楽器に対して敬意が足りなかったかも、とイリナはハッとした。
「思ってはいない……けど——」
「ピアノとフォルテピアノは似ているが全く別の楽器だ。鉄骨も使っていないし。平行弦のピアノもあまりないし」
ルノーが挙げた通り、ピアノとフォルテピアノは形こそ同じようだが、構造が大きく異なっている。そのため、ピアノを弾くように弾くと、かなりの弾きづらさを覚える。
「音色ももちろん違うけど、それ以外になにか気づかない?」
サロメが腕を組む。まだ調律を終えていないフォルテピアノであるため、完全な音を出すことはできていないが、すぐにわかる違和感。
伝えたいことを理解しているルノーは、レッスン室に備え付けてある、モダンピアノの蓋を開ける。
「わかりやすく、基音の『ラ』を一緒に押してみようか。そっちお願いね」
協力を請われたイリナは、そのままA4の『ラ』を押す。ピアノにおいて四四二ヘルツという、調律において基準となる音。なんの変哲のない音であるが、その伸びに注目した。
「……短い?」
たしかに、自身の押していたフォルテピアノは音がすぐに消えた。モダンピアノのほうはまだ続いている。
首肯するルノー。さらに詳しく説明を加える。
「そう。大きな違いのひとつに『減衰時間の差』がある。フォルテピアノは消えやすい。全体が木でできているから振動しやすく、張力も弱い。ゆえに、音自体が違うんだ」
「だが、振動しやすいというのは、言い換えればモダンピアノ以上に『弱音を繊細に表現できる』とも取れる。難易度は跳ね上がるけどね。できるでしょ?」
サロメの言う通り、木でしか出せない音というものがある。モダンピアノは硬質で芯のある音になりやすいが、フォルテピアノは柔らかく温もりのある音。結局は人の好みであるが、より繊細なタッチを求められる。
脅かされているとはわかりつつも、顔を叩いてイリナは気合を入れる。
「……やる、しかない」
吐く息が揺れている。緊張。本当にできるのだろうか? もしできなければ。その先は考えないことにする。
「やっとやる気になった?」
策を講じたサロメからしたら、ここで逃げ出すようであれば骨折り損だったが、どうやらチャレンジだけはするらしい。少し見上げる。




